の上等室。石川長範は秘書の江戸川熊蔵と将棋をさしていた。長範社長、四十がらみの苦味走った好男子。ところが熊蔵秘書が怖しい。これも四十がらみであるが、何百人叩き斬ったか分らないという面魂《つらだましい》である。戦争で何万人殺したって凄みはでないが、この先生は天下泰平の時代に人殺しを稼業にしたという凄みが具《そなわ》っているから怖しい。ゴリラの体格。この先生がグッと盤上へかがみこむと、将棋盤が灰皿ぐらいに小さくなってしまう。
「御足労、御苦労御苦労」
 長範社長はウイスキーをグッとあけて才蔵にさし、
「実はな。オレもマニ教の信者でな。社用で箱根へくる。社用の方はサルトルや熊蔵がやってくれるから、オレはヒマを見てマニ教の神殿へとまる。魂が浄まって、しごく、よきものだぞ。今朝まで泊っておった。オレは進駐軍関係の土建業務もやっとるから、キリスト教のよいところも充分に知っとるが、やっぱし宗教はカシワデ、指圧。日本人の霊はこの手だなア。手に関係が深いぞ。だから日本人の体質には、アンマ、指圧が病気にきくのだなア。精神的にも肉体的にも、日本の伝統は手の伝統である。神道は手の霊である。日本人に適する職業は手の職である。どうだ。わかるか。これが分れば日本が分る。オレは進駐軍に神道を普及したいと思うとるが、手の霊であるということが分らんのだなア」
 さすが物には驚かぬ才蔵も、この新学説にはおどろいた。バカかと思うと、そうでもない。将棋をさしながら喋っている。時々、ギロリ、ギロリ、と才蔵を見つめる。その眼光の鋭いこと。一見小柄の好男子だが、ゴリラの熊蔵と盤に対して、堂々と威勢を放っているから、さすがに土建の親分である。
 ところがゴリラの熊蔵の対局態度が珍しい。彼は盤をかくすように覆いかぶさって、五分、十分、十五分、沈々として微動もせず考えこんでいるのである。
「話というのは、ほかでもないが、お前のとこの正宗常務だなア。オレが助けてやろうと思うとるが、あのままでは、一週間で狂い死んでしまうぞ。支離メツレツじゃ。今朝などは、もう、ひどい。寝小便はたれる。着物にクソをつけて歩いておる。やつれ果てゝ、二目と見られたものではないぞ。秘書たる者が温泉につかって酒をのんでる時ではないぞ」
「ヘエ。アイスミマセン」
「今朝オレが帰る時にマニ教の内務大臣から話があって、明暗荘に秘書の者がおるから伝言せよと言
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