は、この部屋にいらっしゃいます。あなたは、もう、貧乏ではありません。巷談社の重役です。莫大な月給をいただいています。私がいただいて貯金してある賞与だけでも、三十何万円とあります」
「巷談社?」
「ええ」
「重役だって? ボクが? あれは一時のカラクリだ。そして、あれは、天草商事だ。アア、みんな思いだしたぞ。ボクはマニ教の神殿へ監禁された……」
「そうですよ。天草商事はつぶれました。そして、マニ教から、あなたを救いだして下さった方が、新しい会社を起して、それが巷談社です。ツル子さん、いらして」
すすみでたのはツル子である。ちょうど見舞いに来ていたのだ。ツル子はニッコリ笑ったが、顔がほてって、あかかった。
「お父さん! ごめんなさい。そうお呼びしましたわね。三日間箱根で」
菊松は目をみはった。ああ、覚えている。はじめて見た時は、箱根へでかける朝だ。物も云わず、チョコレートをつめかえていた。宿屋では、彼にモーニングをきせてくれた。モーニングをぬぐ時はドテラをきせてくれるために、うしろに立っていた。そして、お父さんとよんだ。
だが、憎むべき天草商事の一味であることに変りはない。脱出に失敗して、ただ一人、とり押えられた悲しさを思いだす。忘れられない悲しさだった。そのとき、あの連中は、この娘も、後をも見ずに、彼を捨て、逃げてしまった。恨みの後姿が、目にしみているのだ。
ツル子は見つめられて、泣きそうになってしまった。
「すみませんでした。お恨みをうけるのが、当然ですわ。私たち、自分の功名にあせって、一人のお方に悲しい思いをかけることを忘れていました。それが地獄の責苦よりも悲しい苦痛だということを……」
「ツル子さん。よして! あなたは天使です。どうして、あなたが、悪いものですか。逃げおくれた正宗の運が悪るかったのです。もう、こんな話は、よしましょうね。お父さんが退院して、元気が恢復してから、笑い話に思い出を語り合う時がきますわ。それまでは、何を思いだしても、いけませんのよ。あなた、ツル子さんに、お礼、仰有ってちょうだい。私たちの一家を助けて下さったのです。あなたを救いだして、重役にして下さったのも、このお嬢さんですよ」
菊松には何が何やらワケが分らなかった。しかし、現実を素直に受けいれるだけの、妙にスガスガしい落付きがあった。戦争以来、見失っていたスガスガしい気持だ。
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