らの心と戦うヤミ屋やパンパンより、ちょッと悪いだけである。
ヤミ屋は敗戦後の産物だが、政治家になると金がもうかる、これをヤミだとは昔は言う言葉がなかったが、これもヤミではないか。正規の取引関係、税務署の台帳にのる所得じゃない。さすればヤミ屋というのは昔から別のところにちゃんと存在したことで、今日道義がタイハイしたわけではない、昔からタイハイしていた。昔から中世であった。中世のまゝ、借り物のカミシモをきていたゞけで、中味は変っておらなかった。国全体がサギの性格でありヤミの性格パンパンの性格にすぎないようなものではないか。
璽光《じこう》尊の性格と天皇の性格にも変りはない。戦争中カシワ手をならして、国民儀礼をやり、電車の中で人の尻ごしにペコリと宮城へ頭を下げる、今どき直訴する者がある、米を献納する者がある、これを美談だという。この性格と璽光様とは変らぬ。
我々中世人日本の国はまだ自らの蒙昧を自覚するところにも至っておらぬ。蒙昧とは罪悪であることも自覚されず、人間を、又その原罪を自覚することも始まってはおらぬ。
自らの罪深き心を自覚することなくして、我々が中世人から脱することはできや
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