を主張しうるものではない。
 即ち既に中世より、古代より、かゝる善人はたくさんいた。善人尚もて往生を遂ぐ、即ち危く素懐をとげる、いわんや悪人をや。
 わが罪を自覚する故に、悲愴に又勇猛心をもって悪へ踏みきる罪の子は、神前の座席に於ては善人よりも愛せられるのである。
 ヤミ屋が横行する、善人が貧乏する、不思議な世だ、道義タイハイ、末世の相だというけれども、我々は今始めてそうなのではなく、元々それだけの中世人でしかなかったので、往時は電車が混雑しておらなかったから押しとばし突き倒す必要はなかった、米はいくらもあったからヤミ屋はなかった、その代り働いても食えない人間や働きたくても働く口のない人間があったが、当時はヤミをやればすぐ食えるという便利な道がないからクビでもククルより外に仕方がなかった、そういうわけで、ヤミ屋という職域がなかったからヤミ屋がいなかっただけで、ヤミ屋をやりたい人間がいなかったわけじゃない。
 物資があり余ればヤミ屋はなくなるにきまっている。電車が混雑しなくなれば誰も押しとばしやしない。自然そのまゝで、人為的なところはない。タイハイでも何でもない。自然現象のようなものだ。
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