うことには、これを自分一人でやる場合には非常に勇気がいるのである。ところが徒党を結んでやる場合には、全然勇気がいらない。
 孔子もキリストも古代の思想で、これは人間一個自立自存の思想であるから、勇猛心を代償として尚かつ我利我利妄者であるべきかという豪傑と仁義に関する思想であり、さすがに中世ともなれば進歩したもので、勇気などは始めからもうアパパイで、狡智、策戦、たちどころに徒党を結んで、商人は商人の座、工人は工人の座、パンパンはパンパン座、オカミサンは隣組座、みんなこれをやる。
 キリストが原人的であるのに比べると、孔子はよほど社会人的であるけれども、徒党精神の味方ではない。
 私も中世を好まない。中世よりも古代、原人の倫理を好み、中世に復帰するなら古代に、まず原人に復帰したいと考える。カミシモをぬぐなら、カミシモだけぬいで中世にとゞまるよりも、フンドシまでぬいで原人まで戻ろうというのが私の愛する方法だ。
 私が未明の二時三時に行列して一個のタバコが買えなかったころ、隣組座の横暴もあったけれども、又一方には百個のタバコの五十個を店主が知人やオトクイに流すということも公然のことであった。然しこのころはタバコ屋はまだヤミをやってはいなかった。ヤミ値で売ってるわけではなく、知人への義理人情、オトクイへの義理人情、そういう性質のものであった。
 戦争中はまだ旧秩序への復帰ということが前提されていたから、オトクイはやがて再びオトクイとなる、知人はやがて恩を返す、そういう未来への打算があったのであるが、今はもうオトクイは破産し、知人もヤミ屋となり、旧秩序への復帰の前提が失われたから、みんな中世の座をくんだり、野武士となったり、それぞれ中世の方式通りに活躍遊ばされておる、クモは生れながらにして巣をくむが、人間は戦争に負けると、おのずから中世となる。蜂須賀小六はもう八方に野武士から一国一城のあるじとなりかけているのである。
 パンパン座やマーケット座や隣組座や従業員組合座が中世的であるとすれば、ヤミ屋は個人的である点で、まだ、いくらか古代的であり、原人の勇猛心を必要とする。
 けだし古代というものは、人間がその原罪とか悪と戦ったもので、人間はすべて罪人であり、救世主に縋らずして自らの罪を救い得ぬ迷える羊であるけれども、中世の徒党精神には原罪がきれいに切り放されており、自らの罪を自覚す
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