しても、死なねばならぬ。政治などは何のたしにもならぬ。平然として生きているものは大衆である。
オレはエライ。大衆は何たるバカだ。そういう者は再び東条英機となるだけだ。その部下のモロモロの小役人になるだけなのである。
正しい思想というものは、オレと大衆の優劣感のあるところから生れたものではあり得ない。大衆の代りにブルジョアがあってもならぬ。つまり、たゞ人間、キリストは原罪をとき、孔子は生活の原理に仁を見た。ともかく人間から出発しなければならぬ。何千年逆転してもかまわぬ。モロモロの何千年の時間、カミシモはすべてムダであったと見なければならぬ。
大衆は原人であるか。原始人ではない。又、原人でもない。つまり中世的原人だ。貴族の権力に追いまくられて脱税逃亡、戸籍をごまかし、供出をごまかし、あらゆる手をつくしてゴマカシまわり、徒党をくんでタバコを買い占め、パンパン座をつくる、根は中世的原人で、電燈とガスがなければローソクと薪で間に合い、人生それだけのものときまれば、それだけで済む、自ら電燈もガスも発明することのない中世紀人である。
然し、インテリも、文明知識をひそかにタノミとしていたが、戦争に負けてみると、やっぱり中世の人間にすぎないことが明かとなった。
やっぱり中世にもインテリはいたし、善人もいた。ユダヤ博士はキリストに呪われ、善人どもは親鸞の一喝をくらい、善人なおもて往生をとぐ、危いところで素懐を遂げさせてもらうことができたという始末なのである。
ユダヤ博士というのは、まア今日では哲学博士になるのだろうが、親鸞の危く往生をとげつゝある善人というのは、今日で云うと、やたらに眉をしかめて、道義のタイハイを怒り咒い、ヤミ屋を憎み、パンパンを憎み、エロを憎み、グロを憎み、ストライキを憎み、聖人たるものこう憎みが多くてはこまる、けれども憎まずにいられぬ。善人ともなれば心は大いなる憂いに閉され、悩みの休まる時はない。
新憲法で、サムライと町人の区別がなくなり、宮様もなくなった、みんな人間だ、天皇も人間だ、みんなそうだと思っているが、みんなそうだと思っていやしない。
先ず新聞を見る。サギの容疑者、前代議士何々氏とある。ピストル強盗容疑者何々、とある。善いことをした人でも、会社員以上は何々氏、運転手なら何々君、とある。
そこで正義派のインテリ先生がフンガイに及んで、氏と君
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