そんなバカな大衆の投ずる一票の責任をも余が負わねばならぬか、と云って怒っても仕方がない。
 社会生活とはそういうものだ。オレはエライと思う。大衆はバカだと思う。ちょッと理窟屋の日本人はすぐそう考えて、世をガイタンし、拙者の選ぶものが正しいとくる。たちまちファッショである。
 オレが果してなぜエライのか。少しばかりケイザイの本をよみ、歴史をよみ、政治に就て信ずるところがある。だからエライ。狸御殿のトノサマの陳述と同じことで、胸を切りひらいて、エライかエラクないか、判定するという術はない。
 そんなアイマイなことよりも、オレよりも大衆がエライという事実を知ることが大事だろう。古代の農民が税や使役と戦い、悪戦苦闘、浪流逃亡、戸籍をごまかし、それが結局に於て権力を左右する結果となっている。貴族が栄え、やがて衰え、武士が起った。農民の脱税行為が実は日本の歴史を動かしていた。大衆とは、そういうものだ。
 狸御殿のトノサマも、そのうち代議士ぐらいになるかも知れぬ。トノサマがなるというのは大衆がさせることでもある。トノサマだから参議院かも知れぬ。それでいゝではないか。なぜいゝか。大衆が選んだ、そして、そうなったから。
 自分一人がエライと思うな。オレはエライ、大衆はバカだ、そんなことを言う奴は、私はキライだ。そういう奴はすぐ道徳的、一人よがりの顔をし、権力をふり廻し、小役人根性を現し、ファッショとなる。誰もエラクはない。
 戦争中は四王天というユダヤ退治の中将が日本一の票数で代議士になった。それでいゝではないか。大衆は権力に追いまくられ、その命にたゞこれしたがい、左へ右へ、たよりない。けれども結局は権力にもみぬかれている大衆が、権力をうごかしている、そういう姿が現れてくる。歴史というものゝ姿である。
 大衆とは何であるか。政治も知らぬ。文学も知らぬ。国の悲劇的な運命も知らぬ。然し、大衆は生活している。
 ウマイモノが食べられない。そんな日本は負けてなくなれ。大衆はそういうものだ。日本が亡びてもウマイモノがたべたい。あの人と一緒にいたい。
 その大衆は又、あの戦火にやかれ、危く生き残って、黙々、嬉々たる大衆である。彼らの生活力は驚くべきものだ。この欠配に、どうして生きているか。生きているではないか。誰も革命は起さない。平然と生きている。生きられる筈はないではないか。額面通りなら、どう
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