のであり、だから、その在り方は芸術というよりも生活的なものだ。
 昔はラモオだのバッハだのモオツァルトが日常生活の舞踏の友であった。元来は生活的なものだ。それが今日は生活を離れた典雅なものとなって、時に人々は、その典雅が芸術の本質だと思いがちだが、これが、つまり、老人のクリゴトと同じ性質のものだ。
 現代の若者たちは狂躁なジャズのリズムにのってカストリの濛気をフットウさせカンシャク玉がアバレルようなアンバイ式に一向に芸術的ならぬ現実的エロを味い、甚だもって高遠ならざる恋をさゝやく。
 この現代の狂躁のみをこめたようなジャズの悪音響も、やがては典雅となる筈である。現代そのものは常にまったく典雅ではない。現代は歴史ではなく、生活それ自体だからだ。生活自身は歴史的に観察整理され得ざるところに本領があり、どこの地獄へ流れつくのか見当のつかない曠野の遍歴と自らの何者たるかを知らないバカ者、つまり生活しつゝある人間一匹がいるのみなのである。
 歴史と現実をゴッチャにして、現代の貧困などゝ言う奴は、つまり研究室の骨董的老人で、時代に取り残された人、即ち自ら生活せざる愚人であるにすぎない。
 歴史的な観察法は現代には通用しないものだ。なぜなら、人間と一口に言うが、いわゆる人間一般と、自分という五十年しか生きられない人間とは違う。人間は永遠に在るが、自分は今だけしかない。そこに現代というものゝ特性があり、生活というものが歴史的な観方と別に現実だけのイノチによって支えられているヌキサシならぬ切実性があるのである。
 これを知れば、現代の貧困などゝいう言葉は在り得ない。現代は貧困でも豊富でもない。現代は常にたゞ現実の生活であり、ギリギリの物なのである。

          ★

 日本の伝統が、主として偶像的虚妄の信仰であることゝ同様に、外国文学の公式的な移入にも、同様な偶像信仰がつきまとっているものだ。
 近ごろの日本文壇では、スタンダールと云えば、何かもう、絶対のように考えられているが、私はおかしくて仕方がない。織田作之助など、自分を二流と云い、スタンダールを一流と云い、二流の中には僕も含まれているらしいが、バカバカしい話である。
 私は自分を何流とも考えないが、スタンダールよりも下の作家だとは思っていない。スタンダールの作品は、人間が紋切型で、分りきっていて、退屈で、私はバカらし
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング