剣術の極意を語る
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)竹刀《しない》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)残身[#「残身」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポカ/\
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僕は剣術を全然知らない。生れて以来、竹刀《しない》を手に持つたことがたつた一度しかないのである。
中学の時、剣術と柔道とゞちらか選んで習ふ必要があつたが、僕は柔道を選んだ。人にポカ/\頭を殴られるのは気がすゝまなかつたのだ。ところが後になつて、学校の規則が変つて、剣道も柔道もどつちも正科になつて一時間づゝ習ふことになつた。その第一時間目、型をちよつと教へたあとで、いきなり一同に試合させられた。僕の相手になるのは剣道部員で、おとなしい生徒だけれども、剣道の巧みな男であつた。ムザ/\殴られて手も足も出ないといふのは、どうしても残念千万であつた。僕の出場までには時間があつたので対策を考へた。
僕は上段にふりかぶつた。ゆつくり落付いて面! と叫んで竹刀をふり下すと、僕の考へてゐた通り、敵は剣術使ひの卵だから、器用に竹刀を頭上へかざして受けとめようとする。その小手をパシンと斬つた。先生は一本とも何とも言はぬ。もう一度改めて睨み合つて、同じやうに面を打つふりをして小手を斬つた。この一手しか考へてゐないのだから、ほかのことは出来ないのである。先生は又黙つてゐたが、これ以上やると僕が殴られるから、僕は竹刀を投《ほう》りだして、面小手を外した。僕は小手を斬りました、と先生に言つた。あんなのは一本にならん。第一、剣術ではない、と先生が答へた。そんならやめます、僕は体操場をとびだして、裏の山でひるねした。その次の剣術の時間からいつもサボつて、山を散歩した。だから、一度しか竹刀を持つたことがないのだ。
三年の時、故郷の中学を追ひだされて東京の中学へ来たが、この中学では剣術を習ふ必要がなかつた。九州になんとか中学と云つて不良少年ばかりの中学があるさうだが、そこを又追ひ出された荒武者が、この東京の中学へやつてくるのださうである。みんなヒゲ面で、体格堂々、僕など一番子供で、入学したときウンザリした。
入学した第一週間目、用器画の時間に、僕は所在がなくて楽書《らくがき》して遊んでゐたら、先生が黙つてやつてきて楽書を取上げた。お前は私の時間は出席しなくてもいゝ、と言つた。仕方がないから、ハイと言つて家へ帰つた。その学年中、用器画の時間は欠席した。出なくてもいゝと言はれたのだからこつちのせゐではない。もう落第だと思つて答案も白紙をだし、覚悟をきめた。二学期、丁をもらつた。三学期にも白紙の答案を出して落第して、叱られたら、家出して、満洲へ行かうかと思ひ、白系ロシヤの美人と恋を語ることなどを考へたりしてゐたが、やるせなくて面白くなかつた。ところが不思議に及第して、おまけに用器画の三学期間の平均点が乙になつてゐた。二学期丁だつたのだから三学期には百二十点ぐらゐとらないと乙にはならぬ。わけの分らない先生だと思つたが、先生に済まないと思つた。用器画の先生に会ふのが辛くて、転校したかつたが、僕を入れてくれる中学はもう東京にはないので、あきらめて新学期に出てみたら、先生の方が学校をやめてゐた。
この出来事があつたので、同級生が急にビックリして、九州くづれのオヂサン達(まつたくオヂサンであつた)がみんな僕を大事にしてくれて、それからの二年間は平和で幸福であつた。ヨタモノの中学だから、いつも喧嘩があつたが、僕だけはどのヨタモノからも大切にされて、如何なる無礼な仕打も受けずに済んだ。
三年前、小田原に住んでゐたとき、一ヶ月ばかり留守にして帰つてみたら、勝手口の南京錠が外されてをり、内側から鍵がかゝつてゐた。入口の戸、雨戸、一つ/\調べてみたが、みんな内側から鍵が下りてゐる。つまり内側には何者かゞゐる証拠である。君子は危きに近よらずといふ規則であるから、ガランドウ(駅前のペンキ屋)へ行つて助太刀をたのんだ。ガランドウは菓子屋の屋根の上で看板を書いてゐたが、書きかけの一字だけで仕事をやめてしまひ、十六の倅に金棒と金鎚とヤットコと木刀をズックの袋につめて持たせ、僕の庵へやつてきた。けれども、一時間ぐらゐ過ぎてゐたから、泥棒は雨戸を開けて逃げたあとで、先生も慌てゝゐたものと見えて、二包みの荷物をつくつてゐたが、それを忘れて行つた。刑事の話では四五日住んでゐたらしいと云ふことで、僕の蒙つた全被害よりも高価な煙草ケースを忘れて行つた。
盗む物の有る筈のない僕の庵をねらふとは御苦労な泥棒があるもので、泥棒に会はせる顔がなかつた。この庵は元来僕が借りたときから硝子《ガラス》窓が四方に開け放してあつて
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