い靴音が起り、私の横へまで走つてきて私と並んで歩き出したのが分つた。呼吸《いき》の音まできこえてゐた。私達は一言も物を言はずに改札口の外へ出た。うららかに晴れ渡つた昼下りであつた。
明るい蒼空の下へでると、私は始めて太郎さんの方を見た。
「どこへ散歩に行かうかね?」
この最初の言葉をかけたとき、ちらと私の方を見た太郎さんの表情を、ああ私は一生涯忘れることができないのだ。それはあどけない童子が切に母親に哀願するもののやうな、切ない祈りを含めた激しい表情であつた。
その後、私は色々の場合に、色々な善良な人々の極めて善良なそして美くしい表情を限りなく見てきた。それは私に愉しい生き甲斐を感じさせるのであつた。けれども私はいつも私に斯う言ひきかせた。
――いや/\、この表情も美しいが、あの時の太郎さんの表情ほど善良そのものではないやうだて……
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「若草 第一〇巻第六号」
1934(昭和9)年6月1日発行
初出:「若草 第一〇巻第六号」
1934(昭和9)年6月1日発行
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