ゐたのである。つまり私があくまで静穏な気配の中で倦み疲れたやうにただ茫然と自分を失つてゐたのにひきかへ、彼は激しい暴風の中で自分を失つてゐた。
 ある朝、あの人は追ひつめられた者の慌ただしい悲しさで私の部屋へ這入つてきて、生きる理由が分らなくなつたと言ひ、こんな滑稽なことを考へねばならない余儀ない気持は苦しいものだと言つたりしたが、呼吸《いき》でも苦しくなつたのかネクタイをちぎるやうに引きはづして椅子へ落込んだりした。
「太郎さん、君は恋をしてゐるくせに――」と私は笑ひながら言つた。
「そんな無駄を考へる時間がよくあるもんだね」
 けれども他人の言葉はあの人の耳にはひらなかつたに相違ない。あの人は私の部屋へ訪れてきても、自分の言ふことだけを言ひ、自分の考へだけを追ひ、そして、時々うろ/\あたりを見廻したと思ふとふと坐る場所を変へたりした。私はふきだしたり欠伸《あくび》をしたりしながら黙つて太郎さんを眺めてゐるのが面白かつた。
 太郎さんの悪い精神状態の一半の責任は確かにお花さんにあつた。お花さんは太郎さんの若々しい懐疑の心を思ひやり、なるべく同じ状態へ自分を近づけるやうにしていたはり[
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