私を迎へにくることもあつたが、そんな日に彼女の家へ行つてみると、戸をしめきつた暗い部屋に目を泣きはらした彼女を見出すことがあつた。私の来訪を知るともぞ/\起き上つてガタコト雨戸を開け放し泪の乾くまで空をぼんやり見てゐるのだ。私は愉しげにそれを見てゐた。
 老いたる婦人と私は凡そくだらない茶飲み話になんと多くの貴重な時を浪費したものだらう! あの無駄な時間のうちに、私は二ヶ国の外国語を覚えることも出来たであらう。神様と奇蹟の話、怪しげな教義の解説、昔の風俗の話、死んだ人の思ひ出。けれども彼女の話の方が私のくだらない話よりどれだけ実《み》があつたか知れない。私は真面目くさつた顔をして、否、寧ろ自分の話に熱中さへしながら、化物の話や嘘つぱちな科学の話や知りもしない仏教の教義を諄々と説き明した。私は時々愉しげに笑つた。否、殆んど終始悦ばしげに微笑んでゐた。私はその頃せつなかつた。実感のこもつた話はしたくなかつた。すべて真剣なことは落寞とした私の心に自卑を強め、私を脅やかすばかりで、私はそれを避けなければならなかつた。それゆゑ彼女との無役《むえき》な時間が、退屈ではあつたが、むしろ退屈であるために私の心を和やかにした。しん/\と流れるものが私の頸《うなじ》をとりまいてゐたのだ。
 私達は時々親子のやうに連れだつて芝居を見物に行つたりした。私は劇場の賑やかな食卓に凭れ、最も機嫌の良い微笑を泛べながら、心にもない観劇の喜びを語るのが好きであつた。そして老婦人の的はづれな劇評に一々尤もらしい相槌を打つたりするのが愉しかつた。愚かしさのみ心に愉しかつたのだ。
 到頭太郎さんはひどい神経衰弱になり、お花さんもよほどヒステリイ気味になつてしまつた。
 私は太郎さんから次のやうな話をきいた。
 ある朝のこと、お花さんが鋭い顔付をして太郎さんを訪れてきて、恋愛はもう終つたとキッパリ告げたさうである。つづいて暗誦してきた科白を朗読でもするやうな声で、けれども私は貴方が立派な人だと思つてゐます、尚これからはセンチメンタルになりますまいと述べたさうである。太郎さんがどんな表情をしてどう答へ、その日の結果がどうなつたのやら私は知らない。私はそのことを訊ねなかつたのであらうが、太郎さんもそこまでは言ひたくなかつたのであらう。そのときも私は落付いた機嫌のいい顔付をして太郎さんの話を黙つてきいてゐた。却つて愉しさうに笑つたりしてゐたかも知れない。けれども太郎さんは私を殴つたりせずに、急にゆつくりと頭の後へ手を組んで、
「ちかごろ食慾が旺盛になつたよ」
 なぞと呟いた。
 到頭お花さん一家は大阪の親戚を頼つて、そちらへ越してゆくことになつた。尤もそのことでは私は頻りに老婦人の相談を受けたが、生憎これは相談にならなかつた。つまり、その方がいいでせうねと老婦人が尋ねるとその方がいいでせうねと私が答へ、その方が悪いでせうねときかれた時は悪いやうですねと私が答へ、そして結局大阪へ越してゆくことになつたのである。悲しい出来事であつた。
 引越しの仕度でごた/\してゐる日に私が遊びに行つてみると、太郎さんが手伝ひにきてゐて一生懸命に荷物の整理をしてゐた。時々必要以上の荒い物音をたてたりしたが、老婦人は何もきこえない振りをして物も言はずにせつせと行李をつめてゐた。お花さんは不在だつた。なんでも太郎さんの顔をみると、まあ丁度いいところへ来て下すつたわ、阿母さんに手伝つてあげてね、あたしはこんなうらぶれた[#「うらぶれた」に傍点]ことは嫌ひよと言つて出掛けてしまつたさうであつた。私も大体に於てお花さんの意見に賛成であつた。そして私は二人の目覚ましい勤労の人々を悦ばしげに眺め、仕事の終るまで壁に凭れて煙草をふかしてゐた。
 老婦人は私の訪れによつて幾分勇気を挽回したらしい。時々かなりの声を張りあげて、
「近頃の若い男つて、どうして斯うも甘ちやんでだらしがないんだらうね! 女の言ひなり放題にペコ/\してゐるよ。女に振られるのも無理はないやね。はがゆくつて、みつともなくつて、見ちやゐられねえや、唐変木め!」
 なぞと呟いた。かなり颯爽として威勢のよい眺めであつた。けれどもそれから四五分もすると、同じ方角にシクン/\と音がするので眺めると、こんど彼女は泣きぢやくりながら、息をつめて行李へガラクタを押しこんでゐた。私は変化ある眺めのために全く退屈しなかつたのだ。
 訣別の日がきた。
 太郎さんと私はお花さん親子を東京駅へ送つて行つた。昼の列車だつたのだ。私自身が入場券を購《もと》めたのだから、私は無論プラットフォームまで二人を見送るつもりだつたに相違ない。ところが地下道を通り愈々プラットフォームへ出る階段の下までくると、私は実に私自身にも全く思ひがけない、途方もないことを言つてしまつた。
「ああ
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