望であり、あらゆるものへの呪咀と破壊を意志したときには一途の愛惜に目のくらむ思ひもしてゐる。
 安川はトキ子をだいてゐた。
「あなたとこのまゝ別れては、僕は死ぬことができないから」
 どいつもこいつも、こんな言葉でこんなことをするのだらう、と安川はイマイマしく思つたが、もはや何物をも顧慮することができない。そして彼は自分のどこにもブレーキがないので驚いた。否、驚くひまもなく、実際的な行為とそれをやりとげる力だけが、それだけが自然のやうに次々と起り溢れた。それはまるで芸術の至高の調和のやうな充実した力量感と規律的なリズムをみなぎらしてゐるやうであつた。
 トキ子はさからはなかつた。たゞ地の上へ押し倒されたとき、あゝ、といふウツロな声をもらしたゞけだ。安川の悔恨はその声の回想から起つた。恋でもなく行きづりの愛情からでもないのだらう。あなたとこのまゝ別れては死にきれないと云ふ、それだけの呪縛であり、祖国のためにイノチをちらす若者へのこれも祖国のイケニヘの乙女の諦念にすぎないではないか。
 彼はこの思ひをつとめて抑へてゐたが、集会所をとびだして夜道へ降りて以来、なぜトキ子を手ごめに行くか、嫉妬によつてならば村山を叩き斬るべきで、それによつてトキ子を手ごめにすることはない、さういふ声をきいてゐた。
 村山を叩き斬れば祖国のために死ぬことができなくなる。だから仕方がない。トキ子が自分のやうなものとつながりを持つたのも、自分が祖国のために死ぬといふ定めのためによつてゞあり、これだけは如何なる絶望逆上混乱をふみつぶしても為しとげねばならぬ。すべての特攻隊がさうしてをり、村山にしても、彼もやつばりトキ子をすてゝやがては征かねばならぬ、又、征く、必ず征く筈だ。
 さう思へば、どうしても手ごめに行くより仕方がない。約束なのだから、約束を果さないセンチの方が卑怯だなどゝも思つた。
 然し思ひを果して何が残つたかといへば、祖国の名に於て純な乙女をイケニヘにしたといふ後味の悪さばかり、起き上り、立ち離れて茫然と立ちすくんでゐると、トキ子も起き上り精神的な混乱と肉体の苦痛で歩くことも容易ならぬ様子であつた。そこで再び悔恨が胸につきあげて逆上すると、祖国の名に於てイケニヘになるのはトキ子ばかりではない。自分のイノチがさうではないか。トキ子が何物であるか。自分の場合はイノチが自分のすべてのものが。それを思ふと、絶望ばかりであつた。むしりとり、むしりとつても、目をふさぐ絶望の暗幕をはぎとることができないではないか。
「トキ子さん。立派に死んでお詫びをします」
 それも月並でイヤらしい言葉であつたが、思ふことを言ひきつてしまへば、胸ははれるかも知れない。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない。これが僕の本心、全部です。でも、今は、それを乗りきれます。祖国の名に於て、トキ子さんは僕の暴力のイケニヘになつたから、僕も甘んじてイケニヘになるつもりです。祖国なんか、なんだつていゝや。僕はトキ子さんのために」
 トキ子が唇をさしよせた。抱きしめると、胸の中でトキ子は泣いた。
 手を握りあひ、長い夜道を無言で歩いて、トキ子の家の前へくると、トキ子は立ちどまつて顔をすりよせて、
「私、イケニヘぢやないわ」
 全身に熱気がこもり、情感が溢れてゐる。
「あなたを愛してゐました」
 トキ子は全身を安川の胸に投げこみさうであつたが、安川にそれを受けとめる用意がないので、恐怖と羞ぢらひのために、身をひるがへしてわが家へ逃げこんだ。
 安川は追ふことができなかつた。
 それは残酷な言葉であつた。こゝはやつぱり無言のまゝ別れてくるべきであり、さもなければ、例の月並に、立派に死んで、バンザイ、それでよかつたのだ。イケニヘといふことのほかに、人間なんかの在る余地がないのだから。
 安川はノドをしめあげられ、ノドに荒縄をまきつけられて気違ひ馬に引きづり廻されてゐるやうであつた。途方にくれ、益々絶望するばかりであつた。
 何ものゝ喜ぶべきこともない。トキ子の愛情をたよりに、愛情をみやげに、そんな気持の玩弄はできうべきものではなかつた。のたうちまはる思ひだけであつた。
 畜生! 畜生! オレを殺すのはドイツだ。祖国。そんなもの、八ツザキにしてしまへ。
 どうして恋だの愛だのと言ひだすのだらう。日本中が気が違ひ、戦争といふトンマな舞台の人形、たゞ祖国のために飢え、痩せ、働き、死ぬ、ひとつの道具、兵器の一種にすぎないではないか。恋だの愛だのとそんなことを今更言ふとは、ひどい、なんといふことだらう。
 恋は青空、思ひは海、せめてうらゝかな日に自爆したい。そんな気持になりきれないとは切ない。さうなる以外に、手がないのだもの。そのくせ、なれない。空を仰げば、嘘のやうに星があつた。天の川、悲しく汚く、つまらない星空であつた。
 自分とは何だらう。もうそれを考へては立つ瀬がない。ギリギリのところに、ガンヂガラメにつるされ、死神を待つだけだから。

          ★

 その一夜、三人ながら熟睡したといふのは一人もなかつた。
 然し彼らは翌朝はいくらか気分が落ちついてゐた。仕度をとゝのへ、飛行機を見ると、兵隊なみにひきしまつた心になつた。
 尤も彼らはこれから出撃するわけではなくて、いつたん南端の進発基地へ行き、そこでバクダンを吊して、本格的に海を南へ消え去るわけで、その出撃は更に翌日の予定であつた。
 ところが南端の基地へ来てみると情勢が変つてゐる、敵の大船団が行動を起してゐるといふのはどうやら偵察のまちがひらしい、もう暫く様子を見ようといふことになつてゐた。
 一日生き延る思ひは豊醇きはまるもので、これがあつちの基地であつたらトキ子とひとゝきと思はぬでもないが、さうでなくとも安らかでくつろいでゐられる気持であつた。
 その翌日も、又その翌日も翌日も、命令はない。そして先の大船団はどうやら正体のない幻影だつたといふことになり、まア、お前ら遊んでゐろ、さういふことになつたが、するとそこへ八月十五日、基地は放心した。
 三人はわけが分らなかつた。
 生きた、といふ知覚。それを誰より強く覚えたのは三人であつたかも知れない。オイ、本当か、たまたま彼らは外出を許され、町の民家のラヂオをきいた。民家のラヂオは偽物の放送ぢやないかと思つたぐらゐ、日本が負けた、生きた、はりつめた気持がゆるんで、だるいやうだつた。
 真偽をたしかめに基地へ戻ると、基地ではラヂオをきいてゐない連中が多く、こつちの方が却つて半信半疑、まだ防空壕を掘つてゐる連中がゐる始末であるから、やつぱりまだ戦争か、ヒヤリと心が一時に冷えてしまつたが、まもなく連絡の飛行機の往復がはげしくなる。夕方、食堂へ行くと、泣く奴、怒る奴、吐きだす奴、笑ふ奴、負けたことがハッキリした。
 隊長の中尉が、
「イノチがもうかつたぞ。お前ら、どうする。これから、どうするんぢや、オレは知らんぞ。日本中がみんな捕虜かいな。わけが分らん。基地へ問ひ合せても返事がないから、明日基地へ帰るんぢや。そのつもりにしとけ」
「勝手に帰るんですか」
「蜂の巣をついたやうなものぢやないか。もう血迷つてるんだ。こんなところに命令まつてたら、永久の島流しぢや。向ふぢや死んだつもりにウッチャらかしだらう」
 三人そろつて外へでゝ夕風に当ると、
「オイ、オレは今すぐ基地へ帰る」
 安川は焦燥にイライラしてゐた。
「勝手に帰つちや、ぐあいの悪いことになるだらうぜ」
「どうせ、負け戦だ。咎《とが》められたら、基地へ問ひ合しても返事がないから、隊長が単独行動を許したと言や、すむだらう。後々のことはもう問題ぢやないんだ。オレは是が非でも帰る」
 思ひたつと、つのる焦燥、不安を押へる術《すべ》がなかつた。私イケニヘぢやないわ、あなたを愛してゐた、といふトキ子の言葉が徒らに安川の胎内を駈けめぐつてゐる。その言葉をたしかめなければならない。
 イノチがあつた、これからもある、するとまるでガラリと問題が変つてしまふ。まつたく別人の誕生だつた。然し、そんなことに呆れてゐるヒマはない。村山は行動力のある奴だから、情勢の変化と同時に行動を起してゐるに相違ない。
 安川はもう二人の返事をきかず、ふりむいて飛行場へ歩きこむ気勢であるから、
「よし、オレも一しよに行く」
 妙信が覚悟をきめる。
 急に三人ひとかたまりになつて駈けだす、すると安川のみならずあとの二人も無我夢中であつた。人生が変るのだ。どう変るか、何が変るか、当もない期待と興奮、解放された何かゞ、たゞ気の狂つた動物みたいに全身を逆流してゐる。
 生きてゐた。これからも、生きる。これからは自分が生きて、自分が何かをつかむのだ。走れ走れ。もう兵隊も軍律も土足にかけろ。出発。
 然し、京二郎は、わけの分らない不安があつた。いつたい、自分なんか、本当にあるのだらうか。何物だらうか。これから先々、途方にくれるやうな陰鬱な疲れを感じた。そのくせ、やつぱり胸は何かでふくらみ、張つてゐる。解放されたイノチ! 疲労に目がまはるが、走る足をゆるめる気持にもならない。

          ★

 それから数日、ごつたがへしてゐた基地もあらかた引きあげて後始末の者だけ残り、例のトキ子同盟五名のうち三名は去り、残る者は安川と村山二人、浅草の実家のお寺が焼けて一家不明だといふ妙信とこれも故郷に希望のない京二郎が一しよに残つて、一応部屋のたくさんあいてる星野家へ下宿することになつた。
 ところが村山は安川らが基地をとびたつと、もう我慢ができなくなつた。安川の奴がいつぺん処女を奪つたものなら、トキ子の純潔はもう問題ではない。五人の約束もトキ子を処女としての約束で、いちどケチがついたものならあとは同じこと、早いが勝だと理窟をつけて、さつそく直談判、強要して成功した。
 さういふ関係になつてゐたから、はからざる終戦、母とトキ子は二人の男の膝づめ談判に困却して、なすところが分らない。
 困つたことには、母とトキ子と胸の思ひが違つてゐた。
 トキ子はすでに兄が戦死し一人娘であるから、聟とりといふことになるが、村山は資産家の三男坊で、私大の経済科を卒業してをり、すでに一人前の紳士であるが、安川は医者の三男坊で、絵カキの卵、また二十二の若年で、このさきどんな人間に成長するか、今のところは見当がつかない。
 差当り誰の目にも村山は旧家の主人に申分ない条件を具へてゐるから、母は村山を内々聟にと思つてゐる。
 トキ子は安川が好きだつた。
 二人は胸の思ひを表はさないが、それとなく分ることだから、安川は当のトキ子に一任しようと云ひ、村山は日本の習慣通り親の意志に従ふべきだ、とこれもケリがつかない。母と娘は胸の思ひをあらはすとモツレルばかりだから、安川には安川の気のすむやうに、村山にも同じこと、なるべく当りさわりなく、両方のキゲンをとるから、益々こぢれ、もつれるばかりである。
「当然死ぬ筈の人間、それを前提として出来たツナガリに、死ぬ運命が変つて起つたモンチャクだから、昔のツナガリを土台にしては解決ができない。君がトキ子さんと最初の関係をもつたとか、僕がそれからどうしたとか、かういふ特攻隊員のツナガリは御破産にしよう。僕らは新らたに、全く終戦後別個に現れた求婚者として、正式に争ふべきではないか。我々は直談判をやめて、日本の習慣に従つて、両親の許しを受け、親なり仲介者の手によつて、家と家の交渉、正式に手順をつくして求婚して、正式の返答を貰はふぢやないか」
 かう言ひだしたのは村山で、この提案の計画をたてると、彼はいちはやく、両親に依頼の手紙を発した形跡があつた。この提案は母と娘と四人同座の席でだされ、正式の交渉、もとより女たちはそれを望むのが当然、三対一、反対してもムダだから安川も同意した。然し、安川の親の医院は焼失し、両親がどんな暮しをしてゐるやら手紙ぐらゐで納得するやら、二十二の特攻小僧の嫁ばなし、相手にもしてくれない不安ばかりで、たよりない話だけれども、ひくわけに行かない。
 すると村山は、さう
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