だから、ヘソクリはこの家のどこかしらに必ずある。ふと気がついたのは、春先の安値に買つた四ツの火鉢だ。それを押入の奥へ積み重ねてある。あの灰の中が怪しい。
やにわに押入をあけて火鉢に手をかけると富子が腰に武者ぶりついた。富子を蹴倒しポカポカ殴つて延びさせておいて奥の火鉢をとり下す、とたんに富子が忍び寄つて足をさらつた。ひつくり返る胸の上に火鉢の灰が傾いて札束が見えたのが最後であつた。富子が灰をつかんで宿六の眼の中へ押しこんだ。チラと見た札束を最後にして、宿六の眼は暗闇の底へとざゝれてしまつた。
富子は着物をきかへる。宿六は七転八倒、途中に正気づいては大変と、もう一つの火鉢の灰を頭からぶちまけて、眼も鼻も口も一緒にグシャ/\灰を押しこんでやる。ゆつくり着物をきかへて、奥の二つの火鉢から十万ほどのヘソクリをとりだして、着物や手廻りの物と一緒に包みにした。
宿六はお勝手へ這ひ下りて、まさに水道をひねらうとしてゐる。出がけにもう一握りの灰を鼻の孔にぶつかけ、オカユのはいつた鍋を頭へグシャリとかぶせて、とびだした。
★
最上清人は店をしめて、ひねもす飲み暮してゐた。店では一週間用ぐらゐの酒類が、一人で飲むと却々飲みきれない。夜になると外へでゝ、千鳥足で戻つてきて、万年床へもぐりこむ。飲む金がなくなつたら、首をくゝつて死ぬつもりなのである。そのくせ一日に七八回胃の薬を飲み、胃袋を大切にしてゐる。
死を決して、思ひ当つた思想といふやうなものは、別にない。たゞひつくりかへる灰の下からチラと顔を見せたあの札束が残念だ。富子の奴はあの札束でどこで誰と何をしてゐやがるか、札束だけが残念でたまらない。セッカチはどうもいけない。ハハア、火鉢だなと、気がついたら、素知らぬ顔、長期戦で店の酒をのみ家から一歩も離れずねばつてやる。そのうち富子が便所ぐらゐは行く筈で、その時便所を釘ヅケにしてもよかつたのである。かう思ふと、残念でたまらない。
店のお客がきて戸を叩いたり、倉田がきて、最上先生、ゐないかね、と怒鳴つたこともあるが、知らぬ顔、戸締りをして、主要なところは釘づけにして、酒をのんだり、万年床にごろついてゐるのだ。
二ヶ月あまりで店の酒類も飲みほしたが、彼のヘソクリも終りを告げるところへ来てしまつた。然しまだ店を売るといふ最後の手段が残つてゐる。これより、この店を飲みほすと思ふと、なんとなく胃袋に手ごたへのあるやうな爽やかな気もする。その代り、いつたい、どこで首をくゝつたらいゝのかな、とバカなことを心配したもので、街路樹へブラ下つてもいゝではないか。焼跡へ行くと、風呂屋だか工場の跡だか煙突のまはりに鉄骨のグニャ/\してゐるところがあるから、あの鉄骨へブラ下つてもいゝ。
もう冬がきてゐた。彼は皮のヂャムパーをきて、マーケットのコック氏とオコウちやんの店を探し当てた。商用にきたのだ。店を売らうといふのだが、昔のナジミでいくらか高く買ふだらうと思つてゐたのに、どう致しまして、彼が一式居ぬきのまゝ三十万といふのに、コック氏は七万なら、と言ふあつぱれな御返事。するとオコウちやんが横から、あそこは場所が悪いから、いやだわ、などゝ足もとを見て、いぢめぬく。
ちやうど倉田がきてゐた。
「店を売つちやうのかね。残念ぢやないか。店さへありや、一花さかせるのはワケない筈なんだが、店を売つて何か別の商売やるのかね」
「それを飲みほして、首をくゝるのさ」
「なるほど。それもよろしい。然し、なんだな。ちと芸のないウラミもあるな。芸といふものは、これは人生の綾ですよ。誰だつて、ほつときや自然に死ぬんだから、慌てゝ死んでみなくたつて、どうも、なんだな、お金がないからお金をもうける、女がないから女をこしらへるてえのは分るけど、お金がねえから自殺するてえのは分らねえ。ぢやア、どうだらう。最上先生、私がお店を買ひたいけど、お金がないから、私に貸してくれねえかなア」
「貸してもいゝよ。毎月三万円なら」
「三万円も家賃を払ふぐらゐなら、誰だつて買ひますよ」
「僕は月々三万円いるのだ」
「するてえと、最上先生の言ひ値で店が売れて、十ヶ月の命なんだな。オコウちやんの買ひ値ぢやア、二ヶ月と十日か。人殺しみてえなもんだなア。俺なんざア、一夜にして全財産を飲みほしてあしたのお食事にも困つたり、オコウちやんを彼氏にしてやられても、酒の味がだん/\うまくなるばかりで死ぬ気になつたことなんぞは一度もないけど、最上先生の思想は俺には分らねえ。ぢやア、かうしちやアどうだらう。オコウちやんにタヌキ屋の方へ支店をだして貰ふんだな。私を支配人といふことにして、店の上りの純益六割はオコウちやん、二割づゝ、支配人の給料と家賃てえのはどうだね。これはけだし名案ぢやないか」
「だめですよ。先生みたいな支配人、無給だつて雇ふものですか」
「さう言ふものぢやアないよ。それはオレはハキダメから料理をつくる腕はないけど、タヌキ屋の店なら一夜に平均してカストリ二斗、これだけは請合ふ自信があるです。カストリ二斗といふ請負ひ制度で行かうぢやないか。二斗以上の純益は私のもうけ、二斗以下の日は私の給料から差引く。いかゞです」
「お勘定」
「いけねえなア。最上先生、たまに会つて、呆気なく別れたんぢやア、首くゝりに出かけるところを引きとめなかつたみたいで、寝ざめが悪いよ」
「僕は商用にきたんだ」
「相すまん。最上先生の商用を茶化すわけぢやアないんで、あはよくば私も一口と思つたんだが、オコウちやんが相手ぢやア。こんなところへ商用に来るてえことが、最上先生は決定的に商才ゼロですよ。こゝに於て商談は中止に及んで、もつぱら飲みませう。首くゝりも最上先生の商談のうちでせうから、すでに拙者はとめないです。首くゝりも商用てえのは、意気だなア。首くゝりが意気てえわけぢやないけれど、人生、なんでも商用、なんでも金談てえのが、たまらねえな。然し、だんだん身の皮をはいで首くゝりへ近づいて行く商用てえのはあんまりイタダケないやうだけど、これが浅はかな素人考へといふのだらう。私は然し、最上先生には一つだけ足りないものがあると思ふな。それはつまり浮気は宗教である、といふ思想に就てゞすな。即ち浮気は宗教であるですよ。キリストも釈迦も説法をやるです。これ即ち口説《くどき》ですよ。衆生済度《しゅじょうさいど》といふですな。浮気も即ち救ふといふことです。口説は即ち女人を救ふ道ですよ。浮気によつて救ふ。肉体によつて救ふ。口説のカラ鉄砲といふのは、いけねえな。一万円あげるとか、お店をもたせてあげるとか、嘘をついて女を口説いてはいけないです。金なんかやる必要はない。有りあまるムダな金ならやつてもいゝが、無い金を有るやうに見せかけて女を口説かうなんてえのは、いけない。遊びとか浮気は、それを為さゞるよりは面白い人生なんだから、よつて我々はそれをやりませう、とかう言ふです。私はその真理たる所以を信じてゐるから、私が女を口説き、女がそれに応ずることによつて、女は救はれるといふことを信じてゐるです。即ち私の浮気精神はキリストなんで、最上先生の浮気はキリストぢやアねえな。こゝのところが最上先生に足りねえから、最上先生は首をくゝる。仏教に於ては孤独なる哲人を声聞縁覚《しょうもんえんがく》と言ふです。彼等は真理を見てゐるが、人を救ふことを知らんです。よつて、もつぱら自分を救ふ。何によつて救ふかといふと、死によつて救ふ。真理をさとる故に自殺するです。それは死にますよ。人間は生きてるんだからな。生きてるてえのは死ねば終るから、真理を見れば、死ぬ。死ぬてえぐれえ真理はねえや。つまらねえもんだよ、真理てえものは。そこで、これぢやアいけねえな、といふので、印度に於ては菩薩といふものが現れた。これは色ッポイものだ。孤独なる哲人はいけねえといふので、菩薩の精神はもつぱら色気です。人を救ふといふのは、これ即ち色気です。人生は色つぽくなきや、いけねえ。色ッポイてえのは何かといふと、男ならば女を救ふ、女ならば男を救ふ、これ即ち菩薩です。浮気てえものは菩薩なんだ。たゞあなた、金をしぼらうとか、女をものにしようとか、それは印度の孤独なる哲人の思想ですよ」
「考へなきや、いゝんだよ。そんな風に考へて、言つてみたいのかね。言葉なんてものは考へるために在るんぢやなくて、女を口説いたりお金をもうけるために在ればいゝのさ。死なんてものは、言葉の上にあるだけだ」
「喋るのがオックウになつちやアいけねえなア。ムダな言葉はいけねえと言つたつて、女を口説くにも、やつぱりあなた、情緒といふものが必要ですよ。女人に向つて、この道は佳き道だから余にしたがへ、と言ふ。真理は明快だけれども、オ釈迦サマなら方便とか、救世軍なら楽隊とか、こゝに芸術てえものがあるんだね。芸術てえものは、ムダなもんだ。あなたはムダがねえから、お金の裏が首くゝりなんだなア。然し、あなた、お金の裏はお金、女の裏は女、きまつてるな、これが生きるといふことだ。生きることには、死ぬてえことはねえな。あゝ、さうさう、この店へは近頃毎晩富子さんが現れますよ。例の彼氏、美学者と一緒にね。目下ダンスホールの切符の売子で、彼氏と同じ屋根の下の伴稼ぎなんだが、近頃はなんとなく、口説いてみたいやうな色ッポサがでゝきたね。あなたと一緒の頃のあの人は口説く気がしなかつたけど、つまりなんだなア、あなたの思想は自分の女房まで色ッポクなくさせてしまふんだから、最も孤独なる哲人は、最もヤキモチヤキのやうなものかな。然し、女房といふものは、万人に口説かれるぐらゐ色ッポク仕込まなきやアいけねえのかも知れねえなア」
そこへ富子が瀬戸と並んでやつてきた。昔の宿六を見て、アラ珍しい人が来てるわネエ今晩は、と言つたが、富子がこの店へ瀬戸と並んで毎晩くるのは、実は昔の宿六に、二人お揃ひのところを見せつけてやりたいからだ。
けれども近頃、富子は再び貧乏が身にしみてゐる。十万円握つて瀬戸のところへ駈けつけたまではよかつたが、宿六が追ひかけてきて取り戻されては大変と、温泉へ瀬戸を誘つて豪遊したから忽ちにして文無しとなり、伴稼ぎを始めたが、瀬戸の飲み代で青息吐息、ちつとも面白くない。一緒に飲みにくるのは、昔の宿六に見せつけたい魂胆の外に、三杯ぐらゐで切上げて帰らせるためだが、すると美学者は途中で富子をまいたり、引ずつたり引ずられたり、なぐつたり、なぐられたり、もう一軒、もう一杯と立ち寄つて、とゞのつまり家へ戻ると、ひねもす喧嘩に日を暮してゐるなどゝは、誰も知らないだけの話なのである。富子は肚の中では、どうしてかう宿六運が悪いのだらう、今度はあの絹川といふ色男のところへ押かけてみようか、いつそ社長のハゲアタマの二号に押しかけてみようか、色々と考へてゐる。
最上清人はポケットから手帳をだして調べてゐたが、顔をあげると瀬戸の方に向つて、
「君の借金がまだ九百六十五円あるから、今日いたゞかう」
「どうも、すみませんでした。今日は実は持ち合せが不足なんで」
「ぢや、外套をぬぎなさい」
「さうですか、ぢやア」
瀬戸が立上つて外套をぬいだ。
そのとき私がこの飲み屋に居合せたのである。私は見たまゝ逐一を書く必要はないだらう。馬鹿げてゐるのだ。大づかみに結末だけおつたへしておかう。
「これで千円借して下さい」
と言つて、瀬戸がオコウちやんに外套を差出した。この外套は彼の満洲生活の記念品だから品物は立派で、千円のカタにはなるからオコウちやんは千円貸した。
最上清人は千円をポケットへねぢこんで、三十五円のおつりをおいて、そのまゝブラブラと、ポケットへ両手をつッこんで、ゐなくなつてしまつた。倉田が何か言つたが、彼は返事をしなかつた。
瀬戸が帰るとき、外套をぬぐと寒いな、すると富子が大声で、寒むさうねえ、可哀さうねえ、と云つたが、オコウちやんは一心不乱にオツリを数へてそれをハイ、アリガトウと差出したばかり、瀬戸はクスリと笑つて、ぢやア、又と二人は外へ消え去る。
要するに私が見たといふのは、た
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