から、まア、ちよつとした保養なんですな。それ以上のものはこの世に在りやしないです。それにしても、かう申上げては失礼だけれど、絹川といふ色男も、瀬戸といふ色男も、どうもあなた、少し役不足ぢやありませんか」
「えゝそれはうちの宿六はたしかに偉いところもあるけど、あゝまでコチコチに何から何まで理ヅメの現実家なんて、息苦しくつて堪らないものよ。恋愛なんてどうせタカの知れたものですから、どうせ序曲だけでせうけどね、序曲だけだつていゝぢやありませんか。私はかう胸元へ短刀を突きつけられたやうな、そんなふうな緊張が好きなのよ。瀬戸さんは飲んだくれで、弱気で、ボヘミアンなんて見たところちよつと詩的だけど、まつたく、たよりないわね。だけど私はもうヤケだから、苦労はするでせうけど、一思ひにカケオチしてやれと思ふわ。カケオチしてからの生活なんて、私は二人の家庭なんてもの考へずに、私がどこかの酒場かなんかで働いてゐる、そんなことばかり考へてゐるのよ」
「いけません、いけません。それは誤れる思想です。酒場で働くなら、こゝに酒場があります。第一あなた、苦労する、苦労なんていけませんや。この世に最も呪ふべきものは何か、貧乏です。貧乏はいけません。これだけは質に置いてもこの地上から亡さねばならぬものですよ。夢を見ちやいけません。幸福とは現実的なものですよ。こゝはあなた自分の酒場ぢやありませんか。こいつを活用しなきや。こいつを捨てゝよその酒場で働いて男を養ふなんてえミミッチイ思想は、ミーチャンハーチャンにはよろしいけれども、最上清人の女房たるものに、なんですか、あなた。こゝは先づ当分は私の指図通りにやつてごらんなさい。差当つて、恋愛なるものは、これは地上に実在しないものですから、この酒場からも放逐することが必要ですな。ちよつと痛いでせうけれど、心を鬼にして、瀬戸、絹川、この両名の色男に退場を願ふ、代つて千客万来、これが先づ大切なんですよ。つゞいて、恋愛でなしに、浮気、これをやりなさい。面白をかしく、人生とは、人生を生きるとは、これですな。それはあなた最上清人は面白をかしくなんて、面白をかしいものなんて在りやしねえと言ふでせうけれど、それは彼に於て大真理ではあるでせうけれど、これが実在するといふことも真理なんですよ。小真理ですかな。人生は断じて面白をかしく在りうるです。先づ、お金です。金々々。最上先生も常にそれを言つとる筈ではありませんか。金の在る無しによつて、人生は全く別な二つの世界に分れます。然し、なんだなア、最上先生みてえに、金々々つて言ひながら、毎日毎日、たゞもう飲んだくれてゐるてえ心理は分らねえ、先生はどうも偉すぎて、何を考へてゐるんだか、手がとゞかねえ。然し、彼は、実際に於て、日本随一の哲学者です」
 富子もその日は朝から心境がぐらついてゐた。出て行けと言はれて以来ひどく不安になつたので、出て行くことゝ、出て行けといふことは、結果に於ては出るといふ同じ事実に帰するけれども、これを受けとる心持には大いに差があり、出て行けと言はれる、なんとなく不安だ。
 うちの宿六はたゞ金銭の奴隷なのだから千客万来がモットーで、ちらと見た広告の文案も美人女給「数名」とある。こんなチッポケな店へ数名は無茶だが、宿六は実際さう考へてをるので、なんでもかでもエロサービス、ついでに自分も数名から代りばんこにサービスを受けるつもりに相違なく、富子が出て行く方がまつたく万事宿六の方には都合がよい。
 一方よければ一方悪しと云ふ通り、出たあとの富子の方はどうも分が悪い。えい、ヤケだ、とか、どんな苦労でも、とか考へてゐたが、宿六の方に分が良すぎるといふことを思ひ知ると、残念で、不安で、追んだされては大変だといふ気持になる。
 まつたく倉田の言ふ通り、亭主や女房は万人の貧乏クヂで、何度とりかへても亭主は亭主にすぎないだらう。ねてゐる現場を見つかつても知らぬ存ぜぬと言ひはれといふ、なるほど、浮気のコツはそのへんか。こゝは堪へ忍んで、瀬戸に退場してもらひ、千客万来、相手をみつけて浮気する。この浮気は始めはもつぱら金のためで、ヘソクリを十万百万とつみかさねて、それから瀬戸でも誰でも構はない、手当り次第に美男子と遊ぶんだ、もうかうなればこつちも金の鬼なんだ、宿六め、見てゐるがいゝ、さういふやうな気持になつた。
 ところが清人はその晩十時頃酔つ払つて店へ現れた。彼はお客といふものは酒のついでに女を口説きにくるものだと信じてゐるから、宿六の姿を見せては営業成績にかゝはるといふ深謀遠慮で、帰宅は毎晩一時二時、たまに店の終らぬうちに戻つてきても、客席へ顔を見せることがない。
 この晩は出て行け、カケオチしろといふ、その実行を促進、見届け役で、開店以来の宿六初登場といふことになつた。
 ところが店にはちやうど又あつらへ向きに瀬戸と絹川が両端に、その中間に倉田がしたゝかきこし召してゐる。両端に色男が二人ゐるから、清人は富子に、おい、ドッチがドッチだ、あゝさうか、あつちが瀬戸さん、こつちが絹川さんか。彼は瀬戸のところへ歩いて行つた。
「君はもうこの店へ来ない方がよいよ。お金のある時だけ来たまへ。然し今までの借金は必ず払つて貰ふから。毎日誰かを取りにやります。お金のあるとき、ある分だけ必ず貰ふ。全部払ひ終るまで毎日誰か取りにやります。君はこの女から借りたんぢやなくて、僕が貰ふお金なんだ。その代りこの女を連れて行きたまへ。君のところへ行きたいさうだから」
「まアまア最上先生、お待ちなさい。色恋の話はもつと余韻を含めて言ふものだ。あなたみたいに、さう棒みたいに結論だけを言つたんぢや、話にならない」
 倉田がかうとめ役にでたが
「いや、僕のは色恋の話ぢやないんだ。単純な金談だ。女のことは金談にからまる景品にすぎない」
「いや、金談でもよろしい。ともかく、談と称し話と称するものは、あなたも喋れば、こちらも喋る、両々相談ずるうちに序論より出発して結論に至るもので、いきなり棒をひつぱるみたいに話のシメククリだけで申渡すんぢや片手落だな。よろしい、ここはかうしよう。金談の方は、これはもう、借りた金は払ふべきものなんで、序論も結論もいらない当然な話だから、こちらの方は相当無理な稼ぎもして、闇屋もおやりの由《よし》承つてゐるから、よろしく稼いで、こゝはあなたの男の意地ですよ、女の問題がはさまつてるなら、金の方はサッパリしたところを見せなきや。それぢや、この話はこれで終つた。次に、最上先生、そこへいきなり附録みたいに女をつけたして言つちまふのは無理だなア。ともかく今拾つてきた女ぢやない、女房なんだから」
「女はみんな女さ。この女が出て行きたい、この人と一緒になると言ふんだ」
「さうは言つても、それが全部ぢやない。金談とは違ふです。男女の道に於ては、一つの問ひに答へる言葉が常に百通りもあるもんですよ。それぐれえのことは、私が言ふことぢやなくて、あなたの専売特許みてえなもんぢやないか。やつぱり事、女房となると、あなたのやうな大学者でも、子供みたいに駄々をこねるんだな。精神も物質です。これより我々は、私はでゝ行きます、といふ物質がちやうどまア石炭みたいに、胸の中のどういふ地層で外のどんな物質と一緒に雑居してゐるか取調べませう」
「心理をほじくれば矛盾不可決、迷路にきまつてるよ。心理から行動へつながる道はその迷路から出てきやしない。話はハッキリしてるんだ。君はこの女が好きか、連れて行きたいと思つたら連れて行け。それだけさ。女もそれを承知だし、僕も承知だ」
「最上先生、はじめてお目にかゝりますが、僕、瀬戸です。僕は十年ほど前、高等学校の時に先生の論文を愛読して、尊敬してゐたのです」
「そんなことを訊いてやしないよ。自分の言ふことも分らない奴に限つて、尊敬なんて言葉を使ひやがる」
「まアまア最上先生、さう問ひつめたつて所詮無理だよ。好きだなんて、あなた、好きとは何ですか。女が好きだなんて、あなた、好きにも色々とありますがね、連れて行つて同棲するほど好きだなんて、そんなものが、あなた、バカバカしい、この世に在りますか。女房を貰ふとか、亭主を貰ふとか、これ実に悲しむべき貧乏クヂぢやありませんか。だからこれはもう万人等しく諦めつゝあるところで、あなた方だつて、これぐれえのところは諦めなきや。これは色恋の問題ぢやアない、諦めの問題なんで、この人と奥さんと惚れたハレた、そんなことが問題ぢやアなくつて、女房といふものはこれはもう何をしても諦めなきやアならん。あらゆる女房には一人づゝ必ず諦めつゝある男があるもので、あらゆる亭主にも亦一人づゝ諦めつゝある女があるです。こんなことを俺に言はせるなんて、最上先生もひでえな。私はもうイヤだよ。よさうぢやありませんか。最上先生もよろしく浮気をなさい。浮気ですよ、あなた。この瀬戸君なんて人は何かね、美学なんてものをやると、恋愛だの私の彼女などと、そんなベラボーなことが言ひたくなるのかな」
「むろん僕は浮気だけさ。美人募集の広告をだしたのは、そのためだ」
「そんなことはムキになつて言ふものぢやアありませんよ。あなたも今日は子供みたいだなア」
「富子さん、何か言つて下さい。最上先生、誤解ですよ。僕は恋愛でも浮気でもないんです。たゞそこはかとなく一つの気分に親しんでゐるだけなんで、僕はつまり精神的にも一介の放浪者にすぎんですから」
「あなたは何も言はなくともいゝんだ。あなたのことは金談だけで、もう話が終つてゐる。借金だけは無理矢理苦面しても払ひなさい。さア、あなたはもう帰る時だ。すべて物にはその然るべき場所と時とがあるものだ。退場すべき時は退場する。私がそこまで送つて行つてあげるから」
 瀬戸は何か言はふとしたが、倉田は腕をとつて外へ連れだして行つてしまつた。
 清人は絹川のところへ行つた。
「帰りたまへ。もう君もこの店へ来てくれる必要はない。オイ、こちらの勘定はいくら?」
 高見の見物をたのしんでゐた絹川は、仰天して蒼白になり、金を払つて、遁走した。
 清人は富子を五ツ六ツひつぱたいて、くるりと振向いて寝に行つたが、すぐ戻つてきて、
「お客から法外な金をとつて店を寂らせた責任をとれ。二号になれ。そして僕に金を払へ。食事は一日に一合だけ、オカユだ。それ以上たべたかつたら、人にたべさせて貰へ」
 言ひすてゝ、酒をのみに出て行つた。
 倉田が瀬戸を電車に送りこんで戻つてくると、富子はワッと泣きふしてしまつた。倉田はさすがに少しも騒がず、
「まアまア、あなた、私にお酒」
 泣く女に容赦なく酒を持参させて、
「私がついてる。軍師がゐるから大丈夫。安心なさい」
 人生が面白をかしくて堪らない様子で彼は再びメートルをあげはじめた。

          ★

 倉田ほどの達人でも、人生は然し、彼が狙ふほど面白をかしくは廻転してくれないのだ。第一にお金が足りない。飲みすぎて足をだすから、ピイピイしてゐる毎日が多く、闇屋みたいなこともやるが、資本を飲むから大闇ができず、人に資本をださせ口銭をかせぐぐらゐが関の山で、何のことはない、大望をいだきながら徒に他人の懐をもうけさせてゐるやうなものだ。あそこの赤新聞で紙を横に流したがつてゐるといふ。それ、といふので駈けつけて売値をたしかめ、それから諸方の本屋につてを求めて買手をさがして、東奔西走、忙しくて仕方がなくても、売手買手、両雄チャッカリしたもので、口銭はいくらにもならない。
 彼はどうしても資本家にはなれないといふ性格で、さうかといつて社員には尚さらなれない。諸方の会社や資本家にわたりをつけておいて、儲け口を売りこむといふ天性の自由業、まともなことは何一つできない。
 さすがに然し女はたくさんある。タヌキ屋へ女をつれてきて、御両名の見てゐる前で堂々と口説いて、あつぱれ貫禄を見せたこともあるけれども、浮気などゝいふものはハタで見るほど面白をかしくないもので、何のためにこんな下らないところに金を使つちまつたんだか、せつかく骨身をけづつた金をと後悔に及ぶやうなことばかり、イヤ人生は断
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