にさうでは困る。本当にさうだといふことなんか、ちつとも偉くないぢやないか。
富子は芸者の生態に反感をいだいたことが失敗のもとで、若い美男子の好きなのが自分の本音であり、実際は芸者と同じやうに自分も浮気性なので、だから飜然本然の自分に立ちかへつてやり直してやれ、と考へた。
そんな考へになつたのは「タヌキ屋」をはじめてお客の接待にでるからで、料理は女中がやる、富子が接待に当る、開店の時は美人女給も一名おいてみたけれども、お客の評判は富子の方がむしろ甚だ好評だから、まんざらではない、結婚して大損した、さういふ気持が強くなつた。
するとそこへ現れたのは絹川といふ絶世の美男子で二十七になる会社員だ。油壺から出てきたやうなとはこの男で、お酒は一本しか飲まない、お料理は殆どとらない、そして長く話しこんで行く。毎日いらつしやいな、と言ふと、でも貧乏でダメといふから、富子は外のお客から高く金をとつて、値段は書きだしてないから高くとつても分らないので、それで宿六の知らない利潤をあげて、今日は半分にまけてあげるわとか、今日はお金はいらないことよ、とか、だから毎日おいでなさいといふ意味をほのめかしても五日に一度ぐらゐしか来ない。奥さんは美人だなア、とか、教養が高くて僕の始めての驚異の女性だなどゝ嬉しがらせを言つて帰る。然しどうもお酒を安く飲ませて貰う御義理の御返礼といふ感じでピッタリしないけれども、富子はそれを承知の上でなんとなく嬉しい気持になる。
そこへもう一人現れた。ダンスホールのバンドにゐるというヴヰオリンをひく男で、三十歳、荒《すさ》みきつた感じだけれども、話してみると子供のやうな純粋なところがある。戦争中は満洲に流れてゐたといふが、まつたく見るからのボヘミアン、内職に闇屋をやつてお金をもうけてゐるなどゝいふのが、信用ができないやうな、何か痛々しいやうな感じがする。病的なぐらゐ透きとほるやうな白い顔で、荒れ果て澱んだ翳の奥に、冷めたい宝石のやうな美しさがたゝへられてゐる。悲しくなるやうな美しさで、よく見るとひどく高雅で、孤独で、きびしい何かゞある。
瀬戸といふこの楽師は大酒飲みだ。来始めると毎晩きて、とことんまで飲む。かなり収入はあるやうだが、飲む分量が多すぎるから、忽ち借金はかさむ一方だが、そこで富子の心痛がふへた。清人は客の借金を極度に嫌つて、がむしやらに催促させ、借金とりに日参させ、現金でなければ飲ませないと言明せよと脅迫する。まつたく脅迫で、一度でも借金したら、必ずさう言明しろ、借金の支払はれるまでお前の食事を半分に減らせとか、お風呂へ行く小遣ひもくれない。
けれども富子はなんとかして瀬戸には毎晩来て貰ひたいから、この借金は清人に知らせたくない。清人は深夜に帰つてくるから店のことは知らないが、朝目がさめると前夜の酒の減り方をしらべて売り上げと合はせ、綿密に計算してみぢんもごまかす隙がないから、富子はどうしても外のお客に高く売つてツヂツマを合せたいが、瀬戸の酒量が大きすぎて、とても埋合せがつきかねる。
スタンドだからチップを置くといふ客もすくなく、おまけに清人が小遣ひをくれず、チップを稼げ、それが腕だ、それで小遣ひをこしらへろ、酒場で働く女のくせに遊んで暮すチップもかせげない奴はバカだと言ふ。一晩に千円のチップを置く奴には接吻ぐらゐさせてもいゝし、一万円おく奴には身をまかせてもいゝ。その代り、接吻と身をまかせたチップは俺が貰ふ。なぜなら俺は亭主だから、女房の貞操を売るのはお前でなくて俺なんだから、と言ふ。清人は相当チップがあるものと考へて、時にはヘソクリを見せろ、少し貸せなどゝ云ふけれども、富子のチップは意外に少く、一月分を合せても瀬戸の一夜の飲み代の半分にも当らぬぐらゐ、そこで万やむを得ず外のお客に法外の代金をつける。それでお客がめつきり減つて、もうゴマカシがつかなくなつた。瀬戸一人の借金を十人ぐらゐの名前にわけて宿六の罵倒脅迫暴力を忍んでゐたが、急に借金の客がふへる一方、売上げがぐんぐん減るから、もとより清人は人一倍鋭敏、これは臭い曰くがあると思ひ、自分は知らぬ顔をして、旧友の一人にたのんで、お客に化けて行かせ様子を見て貰ふ、この旧友が然るに意外のその道の達人で、五日通ひ、瀬戸も絹川の顔も見て、なぜ客が減つたか法外な値段の秘密、みんな隈なくかぎだした。然し胸に一計があるから、すぐさまこれを打ち開けなかつた。
富子はもうセッパづまつてゐた。宿六には秘密で誰かに身をまかせてお金をかせいでごまかすか、瀬戸とカケオチするか、瀬戸に心がひかれるけれども、絹川の男つぷりも捨てられないところがある、といふやうな気持もある。
瀬戸はいさゝか酒乱で、泥酔すると、狂暴になるとき、陰鬱になるとき、センチになるとき、皮肉屋になるとき、意地悪になるとき、色々で、然し酔つ払ひはみんな大言壮語、自慢をはじめるものであるが、この男ばかりは自慢といふことをやらぬ。自嘲ばかりだ。その代り人を皮肉り、いやがらせる。そして、必ずエロになり、富子を客席の側へよんで膝へのつかれと言ふ。膝へのつかると、あとはセンチな唄を唄ふばかりで別に何もしないのだが、然し富子は外のお客がゐる前でも、言はれると下のくゞりをくゞつて、膝へのつかりにノコ/\出向くから、お客が減るのも当然だ。富子はもうヤブレカブレなのだ。金々々、色だか金だか見当もつかないムシャクシャした気持で、瀬戸さへゐなければ外のお客の膝の上にも乗つかつてチップにありつきたい、然し瀬戸に知れると困る、実際は瀬戸の膝にのつかることではお客は減らず、却つてこれは脈があると、瀬戸のまだ現れぬ時間、なぜなら瀬戸はいつも九時半すぎてくるから、早めに来て、オイ俺の膝にものつかれと言ふ客がたくさんある。お客が減るどころか、却つてそのために一応お客はふへるぐらゐだ。けれど酔つ払ひはブレーキがないから、味をしめて瀬戸のゐる時にもやられると困ると思ふから、大いにチップにありつきたくて仕方がないが、どうにもダメで、やむなく変な風にニヤ/\笑つて尻ごみする。そのニヤニヤがなんとなく色好みらしく、その気がある様子に見えてカン違ひをする客もあり、おい泊りに行かうなどゝ札束をみせて意気込んでくる五十男があつたりすると、まつたくもう泊つてやらうか、金のためには何でもするといふやうな気持にもなりかけるほどだつた。恋のためではあるけれども、さしせまつた現実の問題としてはたゞ金で、金々々、まつたく宿六の守銭奴が乗りうつり、金銭の悪鬼と化し、金のためには喉から手を出しかねないあさましさが全身にしみつき、物腰にも現れてゐる感じであつた。
瀬戸は富子に良人があるかときく。あると答へると、良人ぐらゐあつたつていゝや、俺は口説くんだと言つてみたが、良人は何をする人か、哲学者? え、名前は、そして最上清人ときくと彼の顔は暗く変つた。
「最上清人。その人の奥さんか」
「あら、その名前知つてる?」
「知つてる。尊敬してゐた。僕は高等学校の生徒だつた。エピキュロスとプラトンに就て雑誌に書いてたものを愛読し、今でも敬意が残つてゐる。あの人の奥さんぢや、ちよつと口説いちやいけないやうな気持になつたな」
「あら、瀬戸さんは音楽学校をでたんぢやないの?」
「音楽は世すぎ身すぎといふ奴の心臓もので、元々余技ですよ。おはづかしいが、美学をでたんだ。然しそつちは尚さら余技だな。たゞ一介の放浪者にすぎん。僕の一生には定まる何物もないですよ」
まつたくこの男は自慢といふことをやらぬから相当つきあつても学歴など知らなかつたので、この時は富子がアッと驚いた。そこでもうこの飲んだくれとカケオチしようか、地獄へ落ちても、あとは野となれ山となれ、一思ひに、にわかに富子はそんな気持にもなつたが、同時に又、するとうちの宿六はやつぱり偉いのかな、さういへばこの放浪者よりはどこかしら自信があるやうに思はれる。
瀬戸は口では最上さんに悪いななどゝ言ひながち、酔つ払ふと相変らず富子をだきよせる。一思ひに、といふ気持が日ごとにメラメラ燃え立つて激しくなるが、一方にこの放浪者の心の幅が却つて狭く見えてきた。なまじひに学歴などを知り宿六と同列に考へる根拠ができたら、今までモヤ/\雰囲気的な観賞だけで済ましてゐられたものが、もつと冷酷に批判的に見る目ができてしまつたせゐで、たしかにうちの宿六よりも幅が狭い。うちの宿六はやつぱり見どころがあるのかな、然し、男つぷりが良きや、それでいゝんだ、カケオチして女給でもして男に酒をのませたり、又、良い男がみつかつたら、それからどうなつたつて構ふもんか、などゝ色々と心が迷ふのである。
★
清人の依頼で富子の稼ぎぶりを五日にわたつてつぶさに偵察したのは倉田といふこれも哲学くづれの闇屋であつた。この人物は宿六が女房に隠れて浮気をし、女房が宿六にかくれて男をもつのは当り前だと思ひこんでゐるから、タヌキ屋の情勢ぐらゐではビクともせず、これはどうも清人御夫妻どちらも教育の必要がある。教育などゝいふものはこれも愉しみなものだ、などゝ考へた。
六日目には、彼は昼間まだお客のないうちにやつてきて、
「やあ奥さん、僕はしらつぱくれてゐましたが最上の悪友で倉田といふ者です。最上にたのまれてお店の情勢を偵察といふのが仰せつかつた役目だけれども、どうも奥さんも、まづすぎるな、色男に飲ませてやりたい気持は分るけれども、外の客からあんな法外のお金をとつたんぢや、お客がこなくなりますよ。お金といふものはそんな風に稼ぐものぢやないですよ。社長とか何とかいふ五十男が札束をとりだして口説いとつたぢやありませんか。あゝいふ人物とちよつと昼間かなにか二三時間うち合せておいて、よろしくやつてくるのですな。亭主が疑つたら、そんなこと大嘘と言ひ張るのです。現場を亭主につきとめられて布団の中で二人でねてゐるところを見つけられても、嘘よ、と言ひ張るのです。徹頭徹尾知らぬ存ぜぬと言ひ張るのが浮気のコツなんですな。お金といふものはそんな風にして稼ぐもんです。そして可愛いゝ男に飲ましてやるんですな」
倉田の忠告はたつた一日遅すぎた。却々《なかなか》倉田の報告がないので、清人は富子を追及した。富子はムカッ腹をたてゝ、もう堪らなくなつて洗ひざらひ叩きつけて、私はもう瀬戸とカケオチするんだと言つてしまつた。
よし出て行け、今晩必ずカケオチしろ、さう言ふと富子の横ッ面をたつた一ツだけ叩きつけておいて、いきなり万年筆を持ちだして紙キレへせかせか何か書きだした。おやおや、これが三下り半といふ奴かと思つてゐると、さうぢやなくて、美人女給募集といふ新聞広告の文案だ。これを握つて物も言はず五六杯お酒をひつかけて新聞社へ駈けて行つた。
「そりやまづいな。好きな人があるんだなんて間違つても亭主に言ふもんぢやありませんや。第一あなた、カケオチなんて、こんなバカバカしいものはありませんや。亭主なんてえものは何人とりかへてみたつて、たゞの亭主にすぎませんや。亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。あなたも然し最上清人といふ日本一の哲学者の女房のくせに、あの男の偉大な思想が分らねエのかな。惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。それぐれエのことは最上がしよつちう言つてる筈なんだがな。へえ、一日に三言ぐれエしか喋らないですか。もう喋るのもオックウになつたんだな。その気持は分るよ、まつたく。最上も然し酒ばつかり飲んでゐて、なんだつて又浮気をしないのかな。あなたにも最上にも私からそれぞれおすゝめします。そしてあとは私の胸にだけ畳んでおきますから、御両人それぞれよろしく浮気といふものをやりなさい。浮気といふものは金銭上の取引にすぎんです
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