歯をむいてゐるやうだ。そして、必死の目の玉で最上清人を睨んでゐる。けれども、怒る目ではない。憎む目でもない。たゞ、必死、懸命、全力的な目の玉なのである。
 最上清人は最後の仕上げに養神様の手にタバコの火をこすりつけて火を消して、手を放して、立ち上つた。
 養神様はハリツメタ力が一時にゆるんで、グラグラくづれるやうだつたが、
「それで、気がすんだかい」
 フラフラしながら、さゝやいた。
「もう、よいよ。今日はおかへり」
 最上清人は茫然外へでた。
「ちよッと、あなた。最上先生」
 次の間で仙境の人物が何か言ひかけてきたが、彼はそれには目もくれず、だまつて外へ出て来たのである。
 彼は何か、怖しかつた。
 必死に歯をくひしばつて、たゞ懸命に必死にこらへてゐる乱れ髪の猿のやうな汚い顔が怖しかつた。
 彼は然し、いくらか、たしかに、落付いてきたのが分つた。それは、たしかに、もう人を殺さなくてもいゝといふやうな、落付きであつた。そういふ力がみんなくづれた思ひであるが、なにがしの小さな驚異が残つてゐた。
 彼は養神様に、神様を見なかつたが、人間をたしかに見た。ヤミ屋のサギのカラクリよりも、もつと人間は複雑で偉大なものかも知れないといふ、何かを見たやうな気持がした。
「マア、よからう。何でもいゝさ」
 冷静で、厭世的で、皮肉な、昔の彼の考へ方が戻つてきた。
「サギ師のイカサマにかゝつて有り金をフンダクラレ、養神様の懸命必死な救世主の身替り精神によつてホロリとするか。してみると、オレといふ奴は、よくよくウスノロかも知れないな。アッハッハ。この人生にも、シャレたことがあるものだ」
 いさゝか自嘲的ではあつたが、さして不快といふわけでもない。
 ねぐらへ戻つて飲み直して、今夜は熟睡してやらう、連日睡眠が足りないから、養神様のお手並で今夜は熟睡できるなら、これも御奇特な次第さ、と、わがタヌキ屋の店先へくると、中の賑やかなこと。
 パンパン、アンチャン、入りみだれて、大陽気、ダンスホールと変じ、倉田博文の浪花節によつてタンゴを踊つてゐる。
 最上清人は眉をしかめたが、すぐ、ふりむいた。
 腹を立てるハリアヒもないやうな気持であつた。よそで一人で飲み直さう、彼はブラブラ、マーケットの方へ戻りはじめた。たしかに、いくらか心が澄んでゐるのが分つた。



底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「金銭無情」文藝春秋新社
   1948(昭和23)年2月発行
初出:金銭無情「別冊文藝春秋 第三号」文藝春秋新社
   1947(昭和22)年6月1日発行
   失恋難「月刊読売 第五巻第八号」
   1947(昭和22)年8月1日発行
   夜の王様「サロン 第二巻第八号」
   1947(昭和22)年9月1日発行
   王様失脚「サロン 第二巻第一〇号」
   1947(昭和22)年11月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年6月18日作成
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