て、位の意識といふものが、にわかに激しく角をだす。
「実は紙を六百連買ふ約束をしたんだ。もう今日にもトラックが来る筈なんだが」
「ハハア。するてえと、あなたは六百連の紙代をヤミ屋さんに渡した、然し、得でども、いまだ紙来たらず、といふわけなんだな」
 カンのいゝ奴だ。一応の急所は忽ち見破る。然しトラックで運んできて、又それをトラックで持ち去られたといふ面妖なイキサツまでは気がつく筈がない。
「マア、さうだね。然し、そのうち、くるだらうさ。現品がちやんと在ることは分つてゐるのだから」
「それはあなた、現品はちやんと在りますよ。紙屋の倉庫にや、いつだつて紙は山とつまれてゐるにきまつてるぢやありませんか。然し、あなた、その紙は紙屋の物ではないですか。ヤミ屋の物ではないですよ。古い手ぢやないか。終戦以来、ヤミ屋の最古の手口だからね。狸御殿といふ殿様の手口ぢやないか。あの殿様の御乱行以来、紙に限つて、まさか日本に、同じ手口にかゝる御仁があらうとは、私は夢にも思はなかつたね。なるほど、こゝの店もタヌキ屋てえ名前だけれど、してみると紙と狸は因縁があるのかな。それは、あなた、洋服だの、キャラコだの、砂糖だのといふものは、まだ殿様の先例がないから、殿様の手口にかゝる御仁のタネはつきないけれど、紙に限つて、これはもう、きかない手口ときまつてるんだがな。だから、あなた、ヤミ屋さんも、紙に限つて、近頃はもつぱら新手できますよ。ヤミ屋さんには紙が有り余つてゐるんだからな。そこであなた現品を山とトラックにつみこんで、ピタリと亡者の店先かなんかへ、これを横づけにするです。現品取引だから、安心しますよ。よつてお金を渡して品物を受取る。するてえと、あなた、翌日カラのトラックへ役人みてえな奴が五六人乗りこんできて、昨日の紙をそつくり持ち去つてしまふです。つまりその紙は売買の品物ぢやアない、封印された品物で、世耕指令だか何だか知らないけれども、テキハツのきかない物品だとか何とか言ふんだな。むろん、これは一組のサギ団ですよ。サギてえものは、サギを封じる手段を弄すると、そいつが逆にサギの手段にされちまふから、これはあなた古今東西、かくの如くにして文明の進歩はキリがないです。私の知りあひの喫茶店と古本屋と質屋を営業して今度出版屋を狙ほふてえ新興財閥のイナセなところが、見事にこれにかゝつたです。かういふ新手にかゝるのは仕方がないけれど、狸御殿の殿様の手口にかゝるとは、哲学者てえものはヨクヨク貪欲で血のめぐりの悪い先生方のことなのかな」
 最上清人は必死にこらへてゐるけれども、百度以上と思はれるフットウした熱血の蒸気が全身を駈けめぐつて、全然フラフラ、あとは何一つ分らない。うつかり動くと、耳だの鼻の穴から蒸気がふきさうに思はれる。つまり精神肉体ともにパンクしたといふのだらう。
 まもなく全身蒸気が消えて、ひどく静かになつてきた。真空状態がきたのだらう。何もない。骨のシンまで、何もなくて、たゞ冷めたいといふ心細い意識しか分らない。死刑執行といふ時に、こんなふうに竦んでしまつて歩くことができなくなるのかも知れない。
「顔色が悪いぢやないか。クヨクヨしたつて、済んだことは仕方がないぢやないか。だから、あなた、今にして言へば、あなたみたいな世間知らずが然るべき軍師も持たずに単独で闇屋の親方みたいなことをやらうといふ大それたコンタンが迷ひの元と言ふものです。まつたく、あなた方をだますぐらゐ訳のないことはないのだからな。戦争中は軍需会社の親玉でも文士の先生でも、それはあなた、総力戦、ハイ総力戦、日本的、ハイ日本的、そんなこともやりましたけど、根はチャラッポコで、軍人さんの言ふことなんぞマにうけてゐる者は先づゐませんや。日本のインテリの中で本格的に軍人にだまされたのは哲学の先生ばかりで、日本的なんとかなんて、これはあなた、この先生方ばかりはまつたくムキなんだな。ムキになるのもいゝけど、ムキになつて、それでちやんと、宇宙と日本のツヂツマが合ふんだからネ、日本の大学校の哲学てえものは自在チョウホウな細工物なんだなア。いつたい、あなた、思索する、物理学とは違ふからね。人間を思索する、人間の世界を思索する、思索だけで間にあふから、どんな細工もきく代りに、実は全然根も葉もない、といふことを、それぐらゐのことに気がつくだけのゴケンソンも御存知ないといふのだから、これはあなた、だまされますよ。しかも御本人は、宇宙の元締、人間をだましたつもりでゐるのだから、可憐なる英雄です。失礼ながら、最上先生は御自分のブンを知らなければいけません。いつたいあなた、まかり間違へば自殺するからすむといふ、その心得ほど貧困きはまる古代的思想はないです。人間はいつも生きてゐなきやア。生きる、是が非でも生きる、生きるといふことが分らなきやア、第一人間の理想てえものが分る筈がないではないですか。生きるからには愉快に生きなければならん、よつて工夫が行はれる、文明開化の正体はそれだけのものなんだけど、そこんところが、どうして先生に分らねえのかなア。ともかく一杯のもうぢやありませんか。こんなことを喋りながら、何も飲まねえてえことは、それがつまり、文明開化の精神に反するものだといふことを、私なんぞは骨身に徹してゐるんだがな」
 倉田はコップをとつてきて、チャブ台の上の最上の飲みかけのウヰスキーをなみなみとついで、一息に先づ一パイ、再びなみなみと半分ほどのんで、
「ウム、これはいける。久しくタヌキ屋で飲まないうちにタヌキ屋の品物は高級品になつたものだな。これは飛びきりのニッカぢやないか。こんなゼイタクなお酒をのんで陰鬱であらせられるといふ心持が分らないね。私なぞカストリていふ新日本の特産品をのんで、毎日面白をかしく世渡りができるんだから、人間の心持てえものは、実に工夫がカンヂンではないのかなア」
 最上清人もやうやく心を取り直して、
「君の知り合ひがやられたといふヤミ屋は木田といふ男ぢやないの?」
「さて何といふ御仁だか、私は昔から犯人の住所氏名は巡査の手帳にまかせておくから、私の手帳につけてあるのはモッパラ愉快な人間の住所姓名に限るんだなア。そんな、あなた、犯人の名前なんぞ、何兵衛でもいゝぢやないか。だまされてから、捕へたつて、手おくれだよ、あなた。こんなに豪華なお酒があるのに、もつと何か、シンから楽しくなるやうな、何か工夫を致しませう」
「ふン、なれるものなら、するさ。僕は一人でゐたいのだから、愉快な御方は引きとつていたゞきませう」
「まアまア、あなた、人間も四十になつたら、ヤケだの咒ひだのといふものが全然ムダなネヅミにすぎないといふことを、理解しようぢやありませんか。よつて新しく工夫をめぐらす。私のやうな害のない単に愉快なるミンミン蝉を嫌つてはいけないでせう」
 最上清人は返事もせずにフラリと立ち上つて、そのまゝ外へでてしまつた。そつちが出なきや、こつちが出る、といふ流儀なのだらう。
 出る者は追はず、無抵抗主義は倉田の奥儀とするところで、おもむろにひとり美酒をかたむける。これも悪いものではない。
 そこへサブチャン、ノブ公、パンパン嬢などが顔をだす。
「おや、パンちやんかい。さあ、アンちやんも上んなさい。美酒を一パイ差上げませう。こゝの先生は深き瞑想の散歩にでられたから、今日は俗事はおやりにならないでせう」
「アレ、御手シャクは恐れ入りますワヨ」
「アレ気のきいたことを言ふアンチャンぢやないか。アンチャン、いくつだい」
「エヘン、一本いかゞ。召しあがれ」
 ノブ公、シガレットケースをとりだして上等なるタバコをすゝめる。
「これは恐れ入つた。行きとゞいたアンチャンだね。アレ、なるほど、つゞいてライターなるもので火をすゝめる。フム、これは、エライ。あなたは出世するよ。かほどの若ザムライを召使ひながら、最上先生も人間の使ひ道を知らねえんだな。よろしい。本日は最上先生に代つて、私があなた方にサービスしてあげる。大いに飲み、かつ談じ、かつ歌ひませう。遠慮なくおやんなさい」
 といふわけで、酒宴がはじまつた。

          ★

 最上清人はマーケットでソーダ水の酒だのオシルコのカストリだのと飲み歩いたが、頭の痛みがいくらか鈍くなつたといふ程度で、アルコールの御利益といふものが現れてくれない。
 酒をのんでゐると、却つて、いけない。坐つてゐると、いけないのだ。ふと、あのズッシリと山積みの充実した量感を思ひだす。すると急に、その量感になぐられたやうにパンクして、恐るべき真空状態に落ちこむのである。
 ピストルがあるなら、いきなり、街角へとびだして乱射して有象無象をメチャ/\にバタバタ将棋倒しにしてやりたい。
 結局、歩いてゐるに限る。
 すると、養神道施術本部の前へきたから、急に中へすひこまれた。
 上つて、いきなり次の間へ行かうとすると、
「モシモシ、順番ですよ。あなたは、どなたですか。御用の方なら取次の私に仰有い」
 そんな言葉には耳もかさず、次の間へはいる。仙境の人は今しも一人の年増の女に養神道の奥儀をといてゐるところだ。
「やつてるネ」
「あゝ、いらつしやい。ちよッと、そこへ坐つてゐらして下さい。今、すぐ、すみますから」
「さうかい。なるほど、見物も面白いな。君のところに、お酒かビールはないかね」
「ぢやア、それでは、あなたを先にやりませう。奥さん、ちよッと、お待ちになつて下さい。最上先生、どうぞ、こちらへ」
「ハッハッハ。又、手相か。君のアツラヘムキにでてるだらうさ。どうだい、君のところぢやずいぶん溜つたらうけど、紙を廻してあげるから、出版屋でもやらないかね」
「フム、なるほど、これは最上先生、大変手相がよくなつてをりますよ。ちよッと、こゝをごらんなさい。こゝのところ、これね。先日はこの枝がありません。たゞ延びきつてゐたのです。まだ、その外にも、色々変つてきたところがあります。そちらの手を拝借。フム、やつぱり、さうです。然し、この前はヒドかつたですね。あれはあなた、ルンペン以下、まつたく僕もそんな手相があるなんて、ルンペン以下とは何ですかネ。今日はあなた、一段上つてをりますよ。今日の手相が、まあ普通のいはゆるルンペンの相ですね。先日は根のないところに大枝をはつて危いところでしたが、この通り、枝が切れて、つまりあなたは安定してをります」
「つまり、僕の本性はルンペンといふわけだネ」
「ひがんではいけませんよ。ルンペンの本性といふ固定したものはありません。手相は動くものですが、それは運命が動く、運命は又、性格であり、本性です。この手相なら養神様に見放されはしませんから、今日はゆつくり対座して、お話を承つてごらんなさい。では御案内いたしませう」
 養神様は相変らず額に乱れた髪の毛をたらして、髪全体シラミの巣のやうにモヂャ/\、ヤブニラミの目を半眼に、口をだらしなく開けて、退屈しきつたやうなネボケ顔をしてチョコナンと膝をくづして坐つてゐる。
「コンチハ。又、来たよ。神様はお化粧しちやいけないのかな」
「アハハ」
 神様はなぜだか、だらしなく笑つた。馬が笑つたみたいな音だつた。
「今曰くることが分つてゐた」
「分るだらうさ。来てゐるからな」
「アハハ」
「だいぶ神様もイタについたね」
「人を恨むでない」
「アッハッハ」
「もう、よい。今日は、よいよ」
 養神様は目をとぢた。目をとぢると、それだけでヒルネの顔になる。
 最上清人はポケットからタバコをだして火をつけた。タバコをパク/\やつてるうちに、ひどくイライラしてきた。みんな殺してやりたいやうな殺気があふれて、やにはに逆上してしまつた。
 いきなり養神様の手を掴んで、タバコの火をギュッと押しつけた。
 養神様はブルブルふるへたやうだつたが、抑へられた手をふりほどこうとしない。アッといふ声はもれたが、悲鳴はあげなかつた。存分に火を押しつけて、顔をあげて、養神様の顔を見ると、最上清人は、水をあびたやうにゾッとした。
 養神様は歯をくひしばつてゐるのである。出ッ歯だから、猿が
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