新時代の個性がある。これは私の説ではない。最上清人の発見なのである。
タヌキ屋のお客にエロ出版の社長がゐて、木田市郎から二百連ほどの紙をまはしてもらつたことがあつた。その話を耳にした、これもお客の一人の出版屋が木田市郎が来た折に紙をたのんでくれと言ふので、承知しました、最上清人も近ごろは言葉がインギンなものである。大商人ともなれば、おのづから、さうなる。木田市郎に話を伝へると、
「えゝ、今はありませんけど、近いうちはいりますから、まはして上げませう」
「失礼ですが、イントク品を払下げていらつしやるのですか」
「いゝえ、テキハツ屋ぢやありませんよ。私はたゞのセールスマンですから、つまり私は製紙会社へ品物を納めるお代に紙で支払ひを受けるのです。先方で現金よりも紙で支払ひたがるから、私が自然ガラにもなく紙のヤミ屋もやるやうになるだけの話なんです。私は紙は門外漢ですから、その時の取引のお値段で譲つてあげますから、あなたがそれで御商売なすつたら」
「それも面白いでせう」
最上清人はエロ出版の社長などゝいふ当り前の実業家は眼中に入れてゐない。政治屋も大会社の社長も陳腐で馬鹿らしく見えるのである。筋のないところで魔法的なビヂネスを愉快にやりとげ、たのしく遊んでゐる新時代の新人だけがたのもしく見える。政治屋だの社長などゝいふ型通りの商売人は家庭でヤリクリ算段の女房みたいなもので、闇ブローカーといふものは定まる家もなく定まる商売の筋もないパンパンガールのやうなもので、人生到るところ青山、青空、愉快な人間に見えるのである。
最上清人と哲学との関係はこゝに到つて全てが明白となつたが、まつたくこれはたゞバカバカしいものであつた。彼はたしかに哲学者であつた。彼が哲学者であるとは、人間を裏切るといふことであつた。
彼は昔は貧乏であつた。だから哲学者であつた。富も権力も持たなかつた。だから哲理といふ代用品で間に合せてゐたわけで、彼の哲学は彼のゐる場所とか位置のものであり、彼といふ「人間」のものではなかつたのである。
だから場所や位置が変ると、哲学も変る。人間によるものぢやない。
貧乏してクビをビクビク安月給で働いてゐたころは、人間は孤独なものだと考へ、死にや万事すむんぢやないか、さう考へてゐたのはツイ先日までのこと、だから内心ビクビクしても案外傲然空うそぶいて課長を怒らして常に後悔に及び恐怖に悩みながら、ともかくウハベはいつも空うそぶいてゐられたのである。近頃はさうはいかない。
彼はもう孤独ではなかつた。多少の富と権力を握つたからで、死にやいゝんだと今までの口癖通りイノチの方をアッサリ突き放したつもりで空うそぶいてみても、富と権力を突き放すことができないから、もう哲学だの思想だのと、そんな悠長な世界ぢやない。思想が変つたなどゝいふ生やさしい話ぢやなくて、人間が変つてしまつた。変らざるを得ないのだ。つまり彼の哲学は、彼の人間によるものぢやなくて、もつぱら彼の境遇によるものであつたせゐなのである。
彼は昔、課長や重役にやられたよりも、もつと冷めたく命令し、コキ使ひ、怒鳴りつけ、口ぎたなく罵つた。弱者に対して全然カシャクするところがないのである。
昔は弱者には同類の親しみを寄せ、強者に空うそぶいてゐたが、近頃はあべこべで、強者に同類の親しみを寄せ、揉手《もみで》をしてオアイソ笑ひを浮べる。昔はまつたく笑つたことのなかつた顔だが、自然にほころびて、今日はいつもにくらべてお若く見えますね、だの、そのネクタイは好ましいです、などゝモンキリガタのお世辞を使ふ。
昔弱者に同類の親しみを寄せたころは、実際は彼は孤独で、親しみなどは寄せてはをらず、貧しく弱い己れをそのやうに眺めることによつて、なつかしんでゐたのであつた。
強者に親しむ今となつては、そのやうな自分を眺めてなつかしむ余裕などは、もはやない。揉手をする、オアイソ笑ひを浮べる、すると先方もいとインギン丁重に如才なくお返しするけれども、実はこつちを突き放して通りいつぺんの御愛嬌にすぎない。最上清人はさうぢやなくて、強者に同類を発見する、さうすることによつてしか自分を発見することができないといふ動きのとれないギリギリの作業を営んでゐる次第。同じオアイソ笑ひも品質が違つて、自分の方の貧しさが分らぬ男ではないから、近頃は無性に怒りつぽくて、弱い奴にはのべつ怒鳴りつけ罵つて蹴飛ばしかねない勢ひ。そのくせ新円階級に会ふと、まるでもうダラシなく自然に揉手をしてオアイソ笑ひを浮べてしまふ。
「実は最上先生、今日はお願ひの筋によつて参上したのですが」
と倉田博文が現れて、
「御承知ぢやないかも知れないが、ちかごろは世間にお金がなくなつたんだなア。近頃はあなた、巷に物がダブついてゐるけれど、買ふお金がないんだね。買つて売れば、もうかる。けれども買ふお金がない、その一つが紙なんだな。紙はある。どこにもある。これを買つて本にして売れば、もうかる。けれども紙を買ふお金が出版屋の金庫になくなつたといふから、深刻であるですよ。この時あなた、こゝに大資本を下してごらんなさい。先づ紙を買ふ。現品で紙を持つてる本屋なんぞは、もう日本にはないんだからな。次に漱石でも西田哲学でも何でも買ふ。買へますとも。金さへ有りや、何でもできる。さういふ時世なんだから、そしてあなた、こんな時世といふものは今まで一度だつて有つたためしがないんだから、話はそこのところなんだな。伝統も権威も看板もシニセもありやしない。みんなお金でヒックリかへる時世なんだから、それをヒックリかへさなきや、この着眼の問題なんだな。闇屋さんなんぞは、もうあなた、ありきたりのものですよ。三井、三菱、くさつても鯛、一時はヒッソクしても潜勢力、横綱のカンロク怖るべし、なんて、そんなあなた、きめてしまつちやいけないなあ。闇屋さんなんぞは新円景気、自ら時代の王者でありながら、内心は、三井三菱、今に必ず盛り返す、なんて御本人がさう考へてゐらつしやるのだから、お里が知れるといふものです。たゞ着眼の問題です。自らヒックリかへすものが、真実ヒックリかへすことができる。一流の作家と作品を買ひ占めて強引に押切つてごらんなさい。一年のうちに、日本出版界の王者はあなた、誰も疑る者がない。昔の記憶といふものは、これを亡す者の在ることによつて、忽ち必ず消滅する。不思議な時代を看破したものゝ勝利です。実はね、私の友人に西田哲学でも三木哲学でも漱石でも、一流中の一流はなんでもちやんと筋の通つた方法でとれるといふ稀な人物がをるです。こんな優秀なる人物は天下に二人とゐませんや。元伯爵、今も伯爵かな。新憲法てえのを知らねえから分らないけど、藤原氏の末席ぐらゐに連《つらな》つてゐるオクゲサマで和歌だか琴だか、みやびごとの家元かなんかに当る古風なお方であらせられるのです。兄小路キンスケと仰有る。明晩つれて参るけど、いかゞでせうか、新円を死蔵しちやアいけないなあ」
「君は古風だよ。見当違ひばつかり言つてるぢやないか。だからウダツが上らないんだよ。著作者とかけあつたり印刷屋とダンパンしたり、何ヶ月もかゝつて紙を本にしたつて、くたびれもうけさ。現品を買つて、右から左へ動かして、もうかる。この方が利巧にきまつてるぢやないか。ありきたりの闇屋さんが、数等利巧なんだよ。君にはアリキタリがいけない仕組になつてるのさ。ひと理窟ひねつて、何かしらホンモノらしい言ひ方をみつける。それだけだ。然し、種がつきないね。尤もらしく、巧妙なものぢやないか。然し、君自身、一度だつてもうけた例がないやうに、君が退屈したためしがないのが、不思議だね。ナンセンスだよ。ハッタリのバカらしさ、無意味さ、君は古風そのもの、古色蒼然、まつたく退屈そのものだね。もう、よしてくれ。君の時代はすぎ去つたのだ。いつの時でもアリキタリなのがその時代の真理なんだよ。アリキタリにもうける奴が、ほんとにもうけてゐるんぢやないか。第一、物はあるけどお金がないなんて、どんなにチャチな闇屋にしても、この節それほど手管のない口説はやらないものだよ」
「これは驚いたな。物はあるけど、お金がない。紙はあるけど、お金がない。これを御存知ないのかね。インフレ時代といふものは川が洪水になるみたいに、同じ情勢が激化するだけのモンキリ型のものぢやアないです。昨日までは鐘や太鼓で探しても無かつたものが、今日は津々浦々に有り余るほど溢れでゝゐる。買ひ手がない。すると又、いつのまにやら無くなつて、鐘と太鼓、お金を山とつんでもお顔を拝ませてくれなくなるといふわけです。紙がない。いくら高くても買ふ、それはあなた、一ヶ年以前の話ですよ。タヌキ屋の裏口の御常連はもつぱら天下の闇屋さんの筈だといふのに、これは又不思議な話があるものだ。闇屋さんなら専門がちがつてゐても出廻りの品を知らないといふ筈がないけど、然し最上先生は悪運の強いお方だなア。なんにも世の中を知らないくせに、お金がころがりこんでくるんだから、街道筋のお百姓と同じやうなものなんだね。それはあなた、右から左へ物を廻したゞけでも、もうかる時は大いにもうかるです。然しあなた、インフレ時代すぎ去れりとなつた時にはそれまでのこと、そこを地盤に何もできやしないぢやないか。現在は時代といふものぢやないからな。流れの泡です。インフレが終つたときに泡が消えて流れの姿が現れる。この流れは然し昔の流れぢやない。今にしてよく志す者だけが自ら次の流れの主流をかたどることができる。あなたがもし今にして志すなら忽然として次の日本の出版王者、泡が消えると、いやでもさうならずにはゐないといふ、歴史稀なるこの時コンニチの特異なところが看破できないのかなア。失礼ながら、現在のあなたなんぞは、たゞのアブクにすぎないよ。最上先生ともあらうお方が、なにがしのお金を握るとかうまでヤキが廻るものかな。それはあなた、マグレ当りにしろ、大金をもうけることは、ともかく偉大なる行跡ですとも。然し、ふざけちやいけませんよ。要するにマグレ当りといふものはマグレ当りさ、何もあなたが時代の赴くところを看破した眼力によるところはないぢやないか。こんな時代ぢや、落語の与太郎がもうけますよ。満員列車にのしこんでお米を担いでくりや、重役の月給の何倍ぐらゐもうかる仕組みにできてる、力づくだね、芸のねえ時世があるものだ。失礼ながら最上先生裏口営業の荒かせぎは与太郎の力業と異るところはないだらうな。与太郎の荒かせぎ、そんなものは時代ぢやないです。たゞ一場のナンセンス。今を時代とよぶならば、たゞナンセンスの時代、それ以外に裏も表もありやしないよ。戦争中は哲学界の御歴々が「日本的」なんとかだなんて、ナンセンスのおツキアヒを御当人はシンからマヂメにやつてゐたけど、軍需会社の重役や陸軍大将でも腹の底ではフキだしたいのを噛み殺して拍車を鳴らしたりしてゐた様子にくらべて、哲学者てえのは誰よりもマヂメに打ちこんでおツキアヒをしてしまふから怖しい。つまり何だね、ロゴスだの宇宙だのと、とてもボンクラの手のとゞかないことばかり思索しながら、実は目先の現実にツヂツマを合せるだけの能しかねえのぢやないかなあ。現実の権勢に盲目的に崇拝ツイヅイなさるのは、そしてそのために宇宙のツヂツマまで合せておしまひになるといふ、哲学者ぐらゐ安直重宝な方々はゐないな。三年前までは日本的なるものゝ発見、今日ビは与太郎の発見、色々と発見なさるですよ。然し今日にして真の明日を看破して杭を打つ者が来るべき日本の王者であるといふ、たつたそれだけのことが分らねえとは。いえ、分りました、与太郎の発見これまた趣向だアね。ともかく発見が好きなんだア。けれども今在るものを発見、それは発見てえんぢやあねえな。与太郎の方は与太郎自身を発見したかも知れねえけれども、最上先生の方が発見したてえことにはならねえだらう。発見させてもらつたんだな。それも亦、発見か」
と倉田博文、例になくオカンムリで頭から一時は湯気のたつ様子であつたが、いつまでもコダハルやうな御方ぢやない。
「いや、相
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