まつた。これでネヂがゆるんでゐるとは、大自然といふ奴はまことに意外な細工師ぢやないか! 豪華本とか楽譜とか軽く抱へて街を歩く、上品でうつたうしくて、よほど心臓の男でもなくちや口説くさきに諦めてしまふ。だから八度ぐらゐの結婚ですんだやうなわけだらう。最上清人はとたんにお客といふお客を嫉妬して、いかにして一人ひそかに秘蔵すべきか、むやみに不安になりだした。
養命保身。これが宇宙そのものでなくて、なんであるか。心臓がブルブル、うつかり喋ると声がブルブルして、心のうちを見ぬかれるから、無言、鑑賞する。見れば見るほどブルブルするばかり、なか/\喋ることができない。
「お名前は?」
第一声。まづこれ以上は喋られない。娘はギクリと顔をあげたが、にはかにポッと上気し、目に熱がこもつて、かすかにほゝゑむ。
「私、西条衣子です。どうぞよろしく」
ネヂのゆるんだ声ではないから、最上清人は狼狽して、
「あなた、お料理できる?」
娘はうつむいてしまつたが
「私、家政婦、いやだわ」
とオカミサンに訴へる。清人は肱鉄砲で射ぬかれたやうにうろたへて、
「いえ、お料理は僕がつくる」
「女中さん、ゐないの」
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