をでたんぢやないの?」
「音楽は世すぎ身すぎといふ奴の心臓もので、元々余技ですよ。おはづかしいが、美学をでたんだ。然しそつちは尚さら余技だな。たゞ一介の放浪者にすぎん。僕の一生には定まる何物もないですよ」
 まつたくこの男は自慢といふことをやらぬから相当つきあつても学歴など知らなかつたので、この時は富子がアッと驚いた。そこでもうこの飲んだくれとカケオチしようか、地獄へ落ちても、あとは野となれ山となれ、一思ひに、にわかに富子はそんな気持にもなつたが、同時に又、するとうちの宿六はやつぱり偉いのかな、さういへばこの放浪者よりはどこかしら自信があるやうに思はれる。
 瀬戸は口では最上さんに悪いななどゝ言ひながち、酔つ払ふと相変らず富子をだきよせる。一思ひに、といふ気持が日ごとにメラメラ燃え立つて激しくなるが、一方にこの放浪者の心の幅が却つて狭く見えてきた。なまじひに学歴などを知り宿六と同列に考へる根拠ができたら、今までモヤ/\雰囲気的な観賞だけで済ましてゐられたものが、もつと冷酷に批判的に見る目ができてしまつたせゐで、たしかにうちの宿六よりも幅が狭い。うちの宿六はやつぱり見どころがあるのかな、然し、男つぷりが良きや、それでいゝんだ、カケオチして女給でもして男に酒をのませたり、又、良い男がみつかつたら、それからどうなつたつて構ふもんか、などゝ色々と心が迷ふのである。

          ★

 清人の依頼で富子の稼ぎぶりを五日にわたつてつぶさに偵察したのは倉田といふこれも哲学くづれの闇屋であつた。この人物は宿六が女房に隠れて浮気をし、女房が宿六にかくれて男をもつのは当り前だと思ひこんでゐるから、タヌキ屋の情勢ぐらゐではビクともせず、これはどうも清人御夫妻どちらも教育の必要がある。教育などゝいふものはこれも愉しみなものだ、などゝ考へた。
 六日目には、彼は昼間まだお客のないうちにやつてきて、
「やあ奥さん、僕はしらつぱくれてゐましたが最上の悪友で倉田といふ者です。最上にたのまれてお店の情勢を偵察といふのが仰せつかつた役目だけれども、どうも奥さんも、まづすぎるな、色男に飲ませてやりたい気持は分るけれども、外の客からあんな法外のお金をとつたんぢや、お客がこなくなりますよ。お金といふものはそんな風に稼ぐものぢやないですよ。社長とか何とかいふ五十男が札束をとりだして口説いとつたぢやありませんか。あゝいふ人物とちよつと昼間かなにか二三時間うち合せておいて、よろしくやつてくるのですな。亭主が疑つたら、そんなこと大嘘と言ひ張るのです。現場を亭主につきとめられて布団の中で二人でねてゐるところを見つけられても、嘘よ、と言ひ張るのです。徹頭徹尾知らぬ存ぜぬと言ひ張るのが浮気のコツなんですな。お金といふものはそんな風にして稼ぐもんです。そして可愛いゝ男に飲ましてやるんですな」
 倉田の忠告はたつた一日遅すぎた。却々《なかなか》倉田の報告がないので、清人は富子を追及した。富子はムカッ腹をたてゝ、もう堪らなくなつて洗ひざらひ叩きつけて、私はもう瀬戸とカケオチするんだと言つてしまつた。
 よし出て行け、今晩必ずカケオチしろ、さう言ふと富子の横ッ面をたつた一ツだけ叩きつけておいて、いきなり万年筆を持ちだして紙キレへせかせか何か書きだした。おやおや、これが三下り半といふ奴かと思つてゐると、さうぢやなくて、美人女給募集といふ新聞広告の文案だ。これを握つて物も言はず五六杯お酒をひつかけて新聞社へ駈けて行つた。
「そりやまづいな。好きな人があるんだなんて間違つても亭主に言ふもんぢやありませんや。第一あなた、カケオチなんて、こんなバカバカしいものはありませんや。亭主なんてえものは何人とりかへてみたつて、たゞの亭主にすぎませんや。亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。あなたも然し最上清人といふ日本一の哲学者の女房のくせに、あの男の偉大な思想が分らねエのかな。惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。それぐれエのことは最上がしよつちう言つてる筈なんだがな。へえ、一日に三言ぐれエしか喋らないですか。もう喋るのもオックウになつたんだな。その気持は分るよ、まつたく。最上も然し酒ばつかり飲んでゐて、なんだつて又浮気をしないのかな。あなたにも最上にも私からそれぞれおすゝめします。そしてあとは私の胸にだけ畳んでおきますから、御両人それぞれよろしく浮気といふものをやりなさい。浮気といふものは金銭上の取引にすぎんです
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