る。仏教に於ては孤独なる哲人を声聞縁覚《しょうもんえんがく》と言ふです。彼等は真理を見てゐるが、人を救ふことを知らんです。よつて、もつぱら自分を救ふ。何によつて救ふかといふと、死によつて救ふ。真理をさとる故に自殺するです。それは死にますよ。人間は生きてるんだからな。生きてるてえのは死ねば終るから、真理を見れば、死ぬ。死ぬてえぐれえ真理はねえや。つまらねえもんだよ、真理てえものは。そこで、これぢやアいけねえな、といふので、印度に於ては菩薩といふものが現れた。これは色ッポイものだ。孤独なる哲人はいけねえといふので、菩薩の精神はもつぱら色気です。人を救ふといふのは、これ即ち色気です。人生は色つぽくなきや、いけねえ。色ッポイてえのは何かといふと、男ならば女を救ふ、女ならば男を救ふ、これ即ち菩薩です。浮気てえものは菩薩なんだ。たゞあなた、金をしぼらうとか、女をものにしようとか、それは印度の孤独なる哲人の思想ですよ」
「考へなきや、いゝんだよ。そんな風に考へて、言つてみたいのかね。言葉なんてものは考へるために在るんぢやなくて、女を口説いたりお金をもうけるために在ればいゝのさ。死なんてものは、言葉の上にあるだけだ」
「喋るのがオックウになつちやアいけねえなア。ムダな言葉はいけねえと言つたつて、女を口説くにも、やつぱりあなた、情緒といふものが必要ですよ。女人に向つて、この道は佳き道だから余にしたがへ、と言ふ。真理は明快だけれども、オ釈迦サマなら方便とか、救世軍なら楽隊とか、こゝに芸術てえものがあるんだね。芸術てえものは、ムダなもんだ。あなたはムダがねえから、お金の裏が首くゝりなんだなア。然し、あなた、お金の裏はお金、女の裏は女、きまつてるな、これが生きるといふことだ。生きることには、死ぬてえことはねえな。あゝ、さうさう、この店へは近頃毎晩富子さんが現れますよ。例の彼氏、美学者と一緒にね。目下ダンスホールの切符の売子で、彼氏と同じ屋根の下の伴稼ぎなんだが、近頃はなんとなく、口説いてみたいやうな色ッポサがでゝきたね。あなたと一緒の頃のあの人は口説く気がしなかつたけど、つまりなんだなア、あなたの思想は自分の女房まで色ッポクなくさせてしまふんだから、最も孤独なる哲人は、最もヤキモチヤキのやうなものかな。然し、女房といふものは、万人に口説かれるぐらゐ色ッポク仕込まなきやアいけねえのかも知れね
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