が違ふんだ」
「いけねえなア、さう、ひねくれちやア。最上先生の思想が如何に地べたに密着して地平すれすれに這ひ廻るにしても、人間が国持大名を望む夢を失ふといふことはない」
 と倉田が慨嘆してみても、彼はアクビひとつせず、俺は貧乏な大学生が下宿の娘とうまくやるのが羨しいのだ、とうそぶくのだから手がつけられない。
 だから彼はもう軍師の情熱を失つて、オコウちやんにも、もう止しなさい、あなたがいくら働きを見せたつてそれに報いてくれる人ぢやアないんだから、ムダですよ、と言つたが、オコウちやんが又奇抜な娘で、いゝえ、私はもうそんなのが目的ぢやアないのよ、五人の女給さんに一泡ふかせてそれからやめるわ、それまで、ゐるから、と言ふ。知らねえや、勝手にしろ、と倉田はもうタヌキ屋の方へはめつたに現れず、東奔西走、持ちつ持たれつ家老の口といふ奴をあちらこちらに口をかけて極めて多忙にとび廻り飲み廻り口説き廻つてゐる。
 倉田は富子の涙話に長大息。
「そいつは、いけないねえ。それでも思ひとゞまつて、しあはせですよ。アッパッパで、小さくなつて、私を二号にしてちやうだいよ、なんて、それぢやア、あなた、闇のチンピラよりも安く値切り倒されてしまふですよ。ともかく着物をなんとかしませう」
 とオコウちやんにたのんで、着物をかしてもらつた。ところが富子が着物を失つてお勝手専門になると、お勝手は二人ゐらない、と女中に暇をやつてしまつた。そこで富子が店へでると、今度は女中の手が足りない。
 するとその晩偶然倉田について飲み廻つて一緒にとめてもらつた青年がある。彼も元来哲学生で、卒業まぎはに召集されて大陸でぶらぶら兵隊生活をして戻つてきたが、闇屋のかたはら小さな雑誌の編輯など手伝つてゐるうちに倉田と相知り、傾倒して彼を先生とよび、始めて偉大なる思想家に会つたと大いに感激してゐる。
 富子の語る一部始終を耳にして、よろしい、そんなら、僕がお勝手をやりませう、と申しでた。
「おい、君も困つたオッチョコチョイだな。お料理なんかできるのか」
「兵隊のとき、大陸でやりましたよ。豚をさいたり、蛇をさいたり、イナゴのテリヤキ、なんでもできますよ」
「そんな荒つぽい料理はいけない」
「いえ、学問の精神は応用の心がまへなんで、わけはないです」
「心がまへと経験は違ふよ。第一君、高級料理から下級料理への応用てえのは分るけれども、蛇
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