か。清クンの絵はアンリ・ルッソオの作風によく似ているが、ここの特殊児童のまるまるふとった風ぼう容姿がどことなくアンリ・ルッソオその人にホウフツたるオモムキがあって笑いたくなるのである。
 現代の絵は五千年も昔のお墓の壁画や、なおそれ以上に白痴の作品に似ているが、現代人の美の好みも美人の好みも白痴美一辺倒的のオモムキがあるようだ。マリリン・モンローやヘプバーンへの圧倒的な人気などがそれである。白痴美だ。そして、あるいは美というものの限界もそのへんにあるのではないかと私は思った。
 真善美の三位一体を人間そのものに求めると、白痴にでも突き当る以外に手がなさそうだ。真善美などと大そうなことを言ってみても、その具体的な限界は案外そのへんにしかないように思う。
 しかし文学の宿題は白痴美を探すことではない。偽悪醜にモミクチャの人間をはなれるわけにいかないのである。

     存在しない神社のお祭り

 日本人は大体においてお祭好きである。キリストを拝んだことがなくてもクリスマスのお祝は盛大にたのしむ。何神サマでもかまわない。お祭には目がないというヤジウマぞろいである。この七月十四日に田舎の高校
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