生がパリ祭シャンソンパーティーというのをやってフランスの革命記念日を祝っていた。お祭騒ぎをとりいれることにかけては島国根性というものが完全にない。それは私自身の性分でもある。
ところで桐生のお祭好きはまた格別のようだ。この徹底的なバカらしさは報告の値うちがあるようである。
だいたいこの市ではお盆というものをやらない。坊主がお経をよんで線香のにおいが全市をとざすようなマッコウくさい行事はこの町の性に合わないのであろう。お盆の代りに七夕をやる。織物地に七夕は当然かも知れないが、男女の星が年に一度あうという七夕は先祖の霊が年に一度もどってくるという盆に似ているし、桐生では七夕の竹飾りを川に流す。これも盆の行事に似ている。桐生が盆をやらないのは七夕で間に合わしているように思う。仏教の盆が七夕の行事に似せたのかも知れない。
とにかく迎え火だの先祖の霊がもどってくるなぞという怪談じみた行事は敬遠いたしましょうという桐生の気風はアッパレで、陰にこもったことは一切やりたがらない代りに、お祭とくると目がないのである。
七月にやるギオン祭はこの市のメーンストリート本町通りの祭礼だ。祭礼の数日間はこのメーンストリートが道路でなくて祭礼の会場となる。
一丁目から六丁目まで、各丁目ごとに道路の幅の半分を占める屋台をすえて、まためいめいのミコシをすえる神殿を造って鳥居を立てる。鳥居から神殿まではトラックが砂をはこんできて四、五間がとこ敷きつめる。道の幅半分を占領してメーンストリートにこれができるばかりでなく、各丁目それぞれ手前の都合があって、道の右側に屋台と神社をつくるもの、左側につくるもの、入り乱れていて全然道の用をなさなくなってしまう。
桐生の警察の交通整理ぐらい根気がよくてコマメなところはめったにない。人は右、車は左、これを破るとかならずお巡りさんに注意されるから、東京からくる人はかならずこれをやられて、
「桐生の町を歩くのはユダンができねえや」
とシャッポをぬぐ例になっている。これほど交通整理に熱狂的な執念をもっている桐生警察もギオン祭には歯が立たないのである。それも仕方がない。祭の期間中、メーンストリートは道路でなくて会場だからだ。昼は行列とミコシのねり歩く会場であるし、夜は芝居や音楽や踊の会場だ。自動車はおろか自転車も通れない。
おのおのの屋台でやるカブキ芝居は日没
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