しさが感じられないのだ。
ヘプバーンのようなのッけからのあどけなさ無邪気さには安定感がない。いつくずれるか分らない危ッかしさがつきまとっている。それは少女歌劇のファンそのものにつきまとっている危ッかしさでもある。
マリリン・モンローは大人に無邪気な安らぎを与えてくれる女性美で、そしてそこに性欲は感じられないのである。たとえ彼女自身の正体がどうあろうとも。
★
私の家の裏に小学校がある。そこに特殊児童の特別教室がある。つまり知能が低くて学問のできない子供たちの教室だ。彼らには運動場はいらない。なぜならスポーツをする能力もないからだ。悪事をする能力もない。ただ無邪気で、かわいい。私はその教室へ散歩に行くのが好きだが、鏡子チャン事件以来、怪しまれそうで何となく小学校の門がくぐりづらいのは情ない。
カタワの子ほどかわいいというが、その子らの親たちもかわいくて仕方がないらしく、みんなまるまるふとっているので、親の心も察せられて悲しいのである。
この教室に飾られている彼らの絵は清クンと同じ流儀の絵である。他の画風を教えてみると他の描き方もするように思うがどうだろうか。清クンの絵はアンリ・ルッソオの作風によく似ているが、ここの特殊児童のまるまるふとった風ぼう容姿がどことなくアンリ・ルッソオその人にホウフツたるオモムキがあって笑いたくなるのである。
現代の絵は五千年も昔のお墓の壁画や、なおそれ以上に白痴の作品に似ているが、現代人の美の好みも美人の好みも白痴美一辺倒的のオモムキがあるようだ。マリリン・モンローやヘプバーンへの圧倒的な人気などがそれである。白痴美だ。そして、あるいは美というものの限界もそのへんにあるのではないかと私は思った。
真善美の三位一体を人間そのものに求めると、白痴にでも突き当る以外に手がなさそうだ。真善美などと大そうなことを言ってみても、その具体的な限界は案外そのへんにしかないように思う。
しかし文学の宿題は白痴美を探すことではない。偽悪醜にモミクチャの人間をはなれるわけにいかないのである。
存在しない神社のお祭り
日本人は大体においてお祭好きである。キリストを拝んだことがなくてもクリスマスのお祝は盛大にたのしむ。何神サマでもかまわない。お祭には目がないというヤジウマぞろいである。この七月十四日に田舎の高校
前へ
次へ
全17ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング