てみたら、一貫目ふとっていた。
「朝晩三合ずつの握り飯を平らげて寝て暮せば、豚でもふとるわ」
たしかに、そう結論するより仕方がないらしい。
彼は落胆した。半月の希望にみちた生活だった。人々に捨てられた文字通り暗い孤独な生活であったが、そのために、ひそかにだきしめて育てた希望は大きかったし、なつかしかった。それが全然ダラシなく足もとから崩れているのだ。
「あの女に会いたいな」
それしかないような気がした。これさえあれば、とも考えた。女の指の冷めたさが、まだ掌に残っていた。それを思いだすと、女が何者とも知れないこと、地上の誰も経験したことのないいたましい悲劇のように思われた。
「オレだけ運がわるいのかな。どうもそうらしい気がするが、こういう悲観的な考えは人生に害があるだけかも知れない」
彼はそんな風に考えて、自分の人生を好転させようとする努力を忘れなかった。
明日は新学期で、学校の寄宿舎へ旅立つという晩、村の郵便局長が彼の父を訪ねてきた。彼の娘を光也のヨメにもらってくれないかというのであった。
「実はな。光也君が拝殿へ閉じこもっているとき、キャラメルを持って見舞いに行って、云い交したそうだが」
「分った。それでは、これがその娘だ」
父はしまっておいた例の手紙をとりだして見せた。郵便局長は一見してうなずいた。
「これは娘の手だ」
「あんたの娘はまだ小さいが」
「イヤ。郵便局で事務をとっているのがいる」
「あれはカタワだろう」
「ちょッと背中がまがっている」
「あれはセムシというものだ」
「そう云うこともできる」
「ビッコじゃないか」
「片足も少しわるい」
「ひどいビッコだ」
「多少歩行に不自由はある」
セムシでビッコの娘であった。
「よくあの足で真ッ暗闇の山道をテッペンの神社まで登ったなア」
光也の父はことごとく驚嘆して叫んだ。しかし、すぐ気がついて、云った。
「ダメ、ダメ。ウチは百姓だ。百姓のヨメは郵便局で事務をとるようにはいかんよ。朝は早くから台所で水仕事をして、それから野良にも出なければならん」
「しかし、子供同志は云い交している。アンタが文句を云うのは人権ジュウリンだ」
「化け物と云い交すはずはない」
「しかし、クラヤミのことだからな」
郵便局長はニヤリと笑った。
光也の父はそれをきくと絶望的な気持におそわれた。有り得ないことではない。しかも祖先の神前で云い交すとは話の外だ。
田舎の人々の高声は隣室まで筒ぬけだった。そして、否応なくそれを聞いてしまった光也は尚さら絶望的であった。
その娘はセムシでビッコであるばかりか、一目見ただけで胸騒ぎがするような特別の顔をしていた。鼻も、頬も、顎もとがり、顔全体が一握りほどの小ささで、蒼ざめているのであった。
光也はその娘と云い交した事実はなかった。神前で行われたことだから、いくらでも堂々と否定できると考えたが、キャラメルをもらったことや、つい今しがたまで再会を切望して泣きたいような気持だったことを思うと、云い交したということがイワレのないことでもないと考えられて切なくなってしまうのだ。
「光也! 光也!」
父は腹を立てて、子供をよんだ。光也は是非なく二人の前へ坐った。二人に問いつめられて、ジッと十分間も石のように考えたあげく、
「言い交したとは思いませんが、そう云われても仕方がないかも知れません」
「なぜ仕方がないか」
彼の父は腹を立てた。
「明日、学校へ行ってから、考えてみます」
「何を考える」
「言い交したか、どうか、考えてみます」
「考えなくとも分るだろう」
「クラヤミのことだからな。ゆっくり考えた方がいいぞ」
郵便局長はニヤニヤ笑って云った。それからドッコイショとミコシをあげて帰ったのである。
翌朝光也がバスのあるところまで一里ほどの山道を歩いて行くと、
「オーイ」
木陰から郵便局長が現れて呼びとめた。そのかたわらに小さな動物がうごめいたが、それが娘であった。
娘は尖った顔の中でそれだけがくぼんでいる目を大きく見開いたが、全然そこには情熱もなく、物を云う目でもなかった。
娘はやせた手をワナワナとフトコロへ突ッこんで、キャラメルの大箱をとりだした。それを黙って差しだした。光也が片手を差しだすと、その掌へ振らせた。やっぱり指は冷めたかった。
「よーし。これで、すんだ。よかった。よかった。着いたら手紙をよこせ。切手代はまけてやるぞ」
郵便局長は大声ではしゃぎながらドッコイショと娘を背負った。
「病気ですか」
「そうだ。恋わずらいだ」
娘を背負って、スタスタ歩き去ってしまった。
バスの中で、もらったキャラメルのフタをあけようとすると、字が書いてあった。
「あなたのお帰りの日まで生きられないでしょう。芳子」
見覚えのある字であった。
「フーン。そうか」
光也は改めて考えた。
早くそれを云ってくれれば、こんなに苦労はしなかったなと彼は思った。彼は一年間考えて、それから返事をするつもりだった。しかし、だいたいに於て結婚を拒否する意向に定まっていたが、そのために、あの拝殿で胸にだきしめていた希望が、それでみんなメチャメチャになることを考えると、いきなり拒否する勇気がわき起らなくなるのであった。
「これでよかった」
と彼は思った。娘が死んだら、いっぺんくらい墓参に行ってみてもいいなあと考えた。
「このキャラメルを食うと、今度こそアイツを抜くことができるかも知れないな」
競技会の前日までしまっておこうかと考えたが、バスが終点までつかないうちに、みんな平らげてしまっていた。
こうして彼はまた校門をくぐったのである。
底本:「坂口安吾全集 13」筑摩書房
1999(平成11)年2月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第三一巻第五号」
1953(昭和28)年4月1日発行
初出:「文藝春秋 第三一巻第五号」
1953(昭和28)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2010年5月19日作成
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