らないが、見張りの鶴には顔に見覚えがあった。隣村の高校生だ。
 けれども、それを云うと巡査の行為をしたことになってしまうという不安が彼を捉えてしまった。彼の全身からまた冷汗があふれだしていた。
「逃げた五人を探して下さい。そうすれば、みんな分ります」
 彼は一生懸命にそれをくりかえした。
「よーし。片ッぱしからフン縛って、キサマも当分懲役だ」
 呪いの言葉をのこして、母と娘は立ち去った。
 この話はたちまち村中にひろまった。その結果、逃げた五人連れの学生を見たというものが現れ、どこの誰それがその一人だったというようなことから、五人の真犯人はつかまった。しかし、それまでには半月ほどの時日を要したので、光也はその期間受難の生活をしなければならなかった。

          ★

 この山中に昔から里人の信仰あつい神社がある。今は県社であるが、大昔の神名帳では大社になっているそうで、この辺の豪族だった国ツ神を祭ったものではないかと考えられている。
 光也の家は代々その神官であるが、実は祭神の子孫であるとも伝えられている。もっとも、確実な史料があってのことではなく、彼の家に伝わる系図というものも、その必要があって百年前ぐらいに製造したらしい怪しいシロモノであった。
 神様の子孫とは云いながら、特に里人の尊敬を受けているわけでもなく、彼の一族が晴がましい思いをするのは、年に一度のお祭の時だけだ。
 この山中では常時オサイ銭があがるということはなく、神社で生活はできなかった。終戦後の現象ではなく、ずッとそうだった。したがって、彼の家の本当の職業は農である。それも中農と小農の中間ぐらい、むしろ小農に近いぐらいの農であった。それと神社の収入を合せて、どうやら子供を大学までやることができたのだ。
 だから光也が学校で学んでいるのは、神社に縁のある学問ではなく、農科であった。今のところ、彼の家のものか、神社のものか、村のものか、ハッキリしない山林があって、その一部はどうやら彼の家の財産に分けてもらえそうになっている。将来その山林に光也の新しい農業知識を役立てようというわけだ。
 彼の父はふだんはただの百姓だが、さすがに事があると神様の遠縁らしい威風を示す習性をもっていた。倅《せがれ》の暴行事件が起ったときには、年に一度のお祭にも見せたことのない高揚した威厳を示した。
「お前はきっと犯人ではないな」
「ウン」
「神様に誓うか」
「ウン」
「では、不浄をたち、拝殿にこもれ。潔白なら神様が犯人を探して下さる。犯人なら神様が息の根をとめて下さる。どっちにしても、それまで外へでられないぞ」
 山の下の鳥居をくぐってから、三丁も杉の林をうねって山上へ登らなければならない。光也はセンベイ布団をひッかついでそこを登った。光也が拝殿の中へはいると、父は扉をとじて大きな錠をかけて戻った。
 朝晩握り飯と水がとどき、その時だけ大小の用をたすことができた。駐在所の巡査が事件のことで会いにきて、錠のかかった扉をはさんで光也と用談をすませた。そして、
「これは世界で一番オッカナイ牢屋だ」
 と呟きながら、汗をふきふき山を降りて行った。
 拝殿へとじこもって一週間ぐらいすぎた日のことである。父は朝の握り飯と水をぶらさげて、拝殿の扉の錠をあけた。すると、扉の隙間に一通の手紙が差しこまれているのを発見した。女の筆蹟であった。
「O・Tは悪い女。虚栄と偽懣と無恥。全女性の敵として彼女は軽蔑される。私はあなたの潔白を信じ、彼女に怒りを覚える」
 筆者の署名はなかった。
 父はこの手紙の意味はだいたい理解できるように思った。O・Tというのは暴行をうけた娘であろう。
 筆者が女であるとすれば、夜陰に乗じてこれを届けたに相違ないが、それは丈夫《じょうふ》もなしがたいような大胆不敵な所業であるから、父は意外に感動した。
 彼は倅の足を蹴とばした。それぐらいにしてもなかなか目をさまさないタチなのだ。すると足の位置から光也が顔をだして、親も神様も呑みこむようなアクビをした。
「これを読め」
 父は急いで手紙をつきつけたが、光也が一応身を起してからも視力や理性が目を覚すまでには相当時を要したのである。
 光也はそれを読んだ。全然つまらないことだと思った。父は云った。
「これは、なんだ?」
「なんだろうか」
「わからないのか。お前の寝た間に誰かがここへ投げこんだのだ」
 光也はそれには答えずに、手紙を投げだして、言った。
「便所へ行ってくる」
 彼は拝殿の生活に不自由を感じていなかった。むしろなかなか良かったのである。浮世の雑音と距てられているので、あの不愉快な事件もケロリと忘れることができ、思う存分ハーモニカを吹くこともできた。時々拝殿にこもるのはむしろ好ましいことのように思われたが、誰かが食事を運んでくれるような親切は再び期待できないだろうと考えると、あじけない思いになるのであった。
「オレが結婚して、子供ができて、小学校へあがるころになれば、朝晩ここへ握り飯をとどけるぐらいの親切はしてくれるかも知れないな」
 と空想した。
 用をすまして戻ると、光也はいくらか手紙のことを考える気持になった。手紙は父の手中にあったので、彼はそれをとりあげて読み返した。要するにバカバカしい手紙であるが、気分的に悪くないものを感じた。
「これを書いたのは女だろうか」
「女だったら、どうする気だ」
「アンタは錠をたてて早く帰ってくれ」
「この罰当り」
 父は手紙をひッたくり、立腹して扉に錠をガチャガチャとおろした。
 それから数日後のことである。
 日が暮れてまもなく、光也がハーモニカを吹き終ると、
「光也さん」
 遠慮がちに呼ぶ声がきこえた。若い女の声であった。
「誰だ?」
 返事がなかった。光也は不承々々格子のところまで出かけていった。あの手紙の女だろうと考えた。しかし、若い女が夜間ここまでやってくるということはいかなる事情にしても過剰すぎる行為に考えられたので、彼は親しむ気持が起らなかったのである。
「アンタは誰だ」
 女はやはり返事をしなかった。格子の隙間から風が吹きこんでくるばかりで、その向うに誰かが存在しているような様子はなかった。ソラ耳だったかと彼は思った。その方が理にかなったことに思われた。
「そうだ。誰もくるはずがない」
 思わず彼が呟くと、ややすねた声がそれに答えた。
「ここに来ているわよ」
 思いだせない声だった。もっとも、彼には親しい女の友達もいない。わけが分らなくて沈黙していると、女が云った。
「ここへ手をだして」
「どこ?」
「ここ」
 女は格子をカチカチ叩いて場所を知らせた。
「手がでるもんか。指が一本通るだけだ」
「格子のところへ手をひらいて当てといて下さればいいのよ。いい?」
「いい」
「ハイ」
 格子の隙間から何かがポロリと手に落ちた。場所がややずれていたので、手に当って下へ落ちた。光也はそれを探して拾った。
「これ、何?」
「キャラメル。好き?」
「好きだ」
「じゃア、手をだして」
 女は指でキャラメルを押しこんだ。そこにちょうど光也の掌があった。すると女はその掌に指を当てたまま、しばらく引ッこめようとしなかった。
 氷のように冷い指であった。女の指と知らなければ、ゾッとして気を失うかも知れないような薄気味わるい冷めたさだった。
 しかし、女がこんな冷い指をしているのは親切のせいだと思ったので、彼ははじめて女に親しみを覚えた。
 女は無言で一ツずつキャラメルを押しこんだ。そのたびに、ちょッとの間、指を掌に押し当てた。
 自然に光也は数を算えていた。キャラメルは十を越した。十一、十二。
「大箱だな」
 感謝の気持で、彼は女に云った。女はそれに勢を得たのか、益々せッせと無言でキャラメルを押しこんだ。彼が二十かぞえたとき、女が溜息をもらしたので、彼は女に悪くなった。
「君は食べたくないのか」
「…………」
「すこし返そうか」
「なぜ」
「二十そっくりもらうのは悪いよ」
「かぞえていたの?」
「君が欲しければ半分返すぜ」
「いいわよ」
「オレがここに居ること、どうして分った」
「村の人はみんな知ってるわ」
 にがい思いがこみあげた。浮世の事情を知ることは甚だよろしくないのであった。
「もう、帰れよ。女が夜こんなところを独り歩きするのは良くないことだ」
「帰るわよ」
 女は力のない返事をした。しかし、モジモジしているようであった。
「明日もキャラメル持ってきてあげるわ」
「もういいよ」
「手紙よんだ?」
「よんだ」
「おやすみ」
 懐中電燈の灯がよろけながらだんだん遠のいて見えなくなった。
 しかし、翌る晩、女は現れなかった。彼は自分の態度がわるかったために、女を怒らせたに相違ないことを羞じた。
 あの女は、親切だ。しかし、誰だろうかと考えた。
「オレが時々ここに閉じこもって暮していると、あの女が握り飯をはこんでくれる」
 それは大いに可能性のありうることだった。闇夜の山道を独り歩きしてキャラメルを届けてくれたほどだから、自分に好意をいだいているのだろう。あの女と結婚してもいいような考えが、またそれに伴なういろいろの想像が彼をたのしませた。
 女の指の冷めたさが何より身にしみて切実であった。その回想は彼に最も快い気分を与えた。それが女のマゴコロのようにシミジミ思われたからである。

          ★

 五人の学生がつかまったので、彼は家に帰ることを許された。彼の気分からいっても、ちょうど出てもよいころであった。
 そろそろ新学期も近づいたし、ランニングの猛練習もはじめなければならない。自然に節食したので適当に痩せたかも知れないから、今年こそ八百で念願の二分をきることができるかも知れない。この考えは彼の神殿暮しにいつも希望の光であった。
 この県のNo1は小学校の教員であった。タイムは彼と同じである。彼はきまったように胸の厚さだけ負けるのだ。そして、そこまで迫まりながら、胸の厚さをどうしてもちぢめることができなかった。彼がキチガイじみたラストスパートの練習にうちこんでいるのは、その胸の厚さを抜くためだ。
 彼はこのNo1に単に好敵手というだけではない敵愾心をいだいていた。それはこの男が人にこう語ったことを知ったからだ。
「彼はドスンドスンと地響をたてて追ってくるから、彼の位置が手にとるように分るのだ。また速力もちゃんと分る。だから要心して大きく離す必要はない。胸の厚さだけ前へでて軽くあしらっているのだ」
 誰しも必要以上にホラを吹きたがるものであるから、ホラだけなら光也は腹も立てなかったのである。「ドスンドスンと地響をたてて」という甚だ好ましからぬ表現に彼は立腹したのである。
 それは事実そうであった。それだから光也はやりきれない。自分の耳にもドスンドスンという地響がきこえるのだ。人々が自分を牛とよぶのはモットモだと考える。自分の走る地響が、自分の耳にも牛のようにきこえるのだった。
 No1は跫音《あしおと》もたてないような痩せた優男であった。女学生に人気があった。そのために、女学生は負けた彼をからかった。
「足跡をならしておきなよ」
 そんなひどいことを云う女学生があった。決勝点の附近の柵に腰かけて、足を宙にブラブラふり柿やパンをかじりながらワイワイ云ってる女学生どもであった。
「ズシンズシンと負けちゃッたわね」
 と云って彼の方にわざと拍手を送る奴もあった。
 ズシンズシンという地響はどうにもならないから、どうしても勝ってみせなければならない。しかし、同じ勝つにしても、ギリギリの本音を云えば、人間なみの地響をたてて勝ちたかった。神殿生活のやむをえぬ節食によって、彼は痩せることにも希望をいだいていた。
 彼は家へ帰りつくと、母にきいた。
「すっかり、やせたよ」
「バカ云え。一まわり、ふとったわ」
「ウソだろう」
「何がウソだ」
 母の剣幕が真剣らしいので彼はおどろいたが、その言葉を信用はできなかった。毎日ひもじい思いをして、ふとる筈はない。ところがハカリにかかっ
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