それはズシンという重い音がした。彼の脳とは反対に何かがギッシリつまっている音だった。
牛は完全にビックリして、ひきつけてしまったのである。彼は両手の物をとり落したことにも気がつかないでいるようだった。魂をぬかれたような顔に、どこから忍びこんだか分らないような絶望的なカゲがフクフクと浮いていた。
緒方は別に何事も見なかったような冷酷な気持でわが家へ戻った。そして、その日の日記に、
「彼の落したカバンの異様に重い地響。牛の本の重きことよ」
というようなことを書いた。
★
その年の春休みの一日であった。
光也(牛の名である)はハーモニカをポケットに入れて家をでた。
学友の一人にハーモニカを吹きならす者がいて、そのえも云われぬ快音に光也はホレボレと心を奪われたのである。そこで彼は手ほどきを乞うた。病みついて二ヵ月になるが、彼の吹きならすフシギな音も彼の耳には音楽であったし、自らそれを味得する幸福でこの上もなく満足であった。静かな山林の中で自分の音楽を味うために彼は家をでたのであった。
山林の奥へすすんで行くと、近所に物音がきこえた。何気なくふりむくと、学生服の男が一人彼の方を見ているのに目が出会った。
女の悲鳴が起らなければ、気にとめずに通りすぎるところであった。
「イヤダァ――」
という変に間のぬけた女の悲鳴がきこえ、争うざわめきがきこえた。
学生服の男は鶴のように突ッ立って彼を見ているだけで、何もしていない。しかし、その足もとで、女とそして誰かとが争っているのだ。さすれば、そこに考えられることは一ツしかない。この山奥の僻村でも、ちかごろ暴行沙汰が絶えなかった。
光也は思わずカッとして、ズカズカと音の方へ近づいて行った。五六間の距離に近づくまで、鶴はなんの表情もなく彼を観察していたが、にわかに合図して逃げだした。五尺七寸五分、二十三貫五百という牛の図体が物を云ったのであろう。逃げた男の数は五人であった。みな学生服であった。
光也は彼らの居た地点まで駈け寄ったが、にわかに足をとめた。そこに半裸にされた娘の姿を見たからではあるが、彼がそのとき確認したのは「娘の姿」と云うよりも「犯罪の姿」と云うべきであった。
彼はみるみる立ちすくんでしまった。不動金縛りとはこれであろう。彼は羞恥で真ッ赤になった。半裸の娘を見たからではなく、緒方の言葉を思いだしたからであった。全身から冷汗がふきだしていた。
緒方にあのことを言われてから、光也は緒方のことを思うたびに半病人になった。思わず目マイがしてスッと血の気がひくのである。
緒方の講義にでることができなくなったばかりでなく、校庭でランニングの練習もできなくなった。緒方とカチ合う不安があるからであった。
しかし、郊外にある市営競技場まで練習にでかけた。スポーツの練習を怠ると、その一日不眠や食慾減退や疲労や精神不統一に悩むからであった。そのかわり、柔道の練習を中止した。ランニングと柔道を一しょにやることができなくなったのである。
彼は一週間ほど練習を休んだのち、責任を感じて、正式に退部を申しでた。次の学期から彼は副将に予定されていたからであった。
部長は彼をよんだ。
「なぜ退部するのか」
光也は本心をあかすことができなかった。
「一身上の都合です」
「どんな都合か」
「柔道はもうやれません」
「なぜやれないのか」
「思想の悩みもあります」
「悩みを語ってきかせよ」
「柔道はやるべきではないです」
「なぜ柔道をやってはいかんのだ。つまり、戦争反対かな」
「一身上のことです。身体に悪いです」
「病気なのか」
「イエ。しかし、病気になってはイカンと思っています」
「当り前だ。誰だってそう思っているから、運動をやって身体を鍛えるのだ。ランニングもやめたのか」
こう問いつめられると、仕方なしに彼の目から凄く大きな涙の玉がポロリところがり落ちた。彼は窮したのである。
ランニングと柔道という二ツを同時に思い浮べても羞恥に悩むようになっていた。だから、ランニングを選んだために柔道を捨てなければならないという心底を打ち開けることは絶対的に不可能であった。どっちか一ツを捨てるとすれば、たぶんランニングよりも柔道の方が泥棒泣かせに近づいているだろうというような思弁をどうして人に打ち開けることができよう。
しかし、部長は追求をゆるめるわけにいかなかった。
「ランニングはやめないのだな」
「…………」
「両立しないのか」
「…………」
「今まで両立したではないか」
何より苦しいところであった。彼は彼の叔父が村長を辞退するときに云った言葉を思いだして、釈明の辞にかりた。
「ボクもトシですから……」
「お前がトシだって!」
「ハ?」
「いくつだ?」
「息切れがするので
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング