い。あなたは、もう、京都へお帰りなさるといいわ」
「左様。記代子のことで滞在がのびてしまったが、明日の特急にでも、帰りたいものですよ」
せつ子は笑った。
「あとは私が一存で致します」
「何をなさるつもりですね?」
「何ッて、相手はヨタモノですもの。記代子さんの身にシアワセのはずはありません」
「その考えは軽率すぎるようだ。世渡りと男女のことは別問題ですよ。体面のために古い恋女房を離婚して、新しい恋愛を実現した代議士もあるしね。女房を大事にするヨタモノがいてもフシギではない。男女のことは、誰にも分りゃしません。銘々に独特の型があるものです」
「いいえ、世間体を怖れないヨタモノは、女房への誠意もありません。世間体を怖れない男には、それに相応する女がいて、女房になるものです。記代子さんはそれに相応した女ではありません」
「なに、結構、間に合う場合が多いものさ」
せつ子はふきだしたが、こう結論した。
「記代子さんのことは、私が一切ひきうけます。あなたは京都へ、ひッこんでらッしゃい」
三
せつ子は街のヨタモノに善意があるとは思わなかった。虫けらのようなものである。そうときまった人間だけが、ヨタモノ稼業がつとまるのである。
彼女は記代子をとりもどすことにきめていたが、円満に返してもらうことも、金を払ってとりもどすことも考えなかった。金というものは、ヨタモノや乞食やパンパンなどに呉れてやる性質のものではない。どんなバカげた浪費をしてもかまわないが、それは仕事に関聯しての話である。
エンゼルから記代子を奪い返すだけのことだ。そういう権利があるからである。理窟はどうでもかまわないのだ。ヨタモノを相手に論争するバカはないのだ。記代子がエンゼルにほれていようが、よしんば、正式に結婚の手続をしていようが、そんなことも問題ではない。
理論的にはエンゼルに勝身があっても、ヨタモノには、良家の娘を女房にする権利などはないのである。それがせつ子の考えであった。社会秩序に反し、不正を稼業としている人間が、たまたま一事に関して正当な理論をふりまわし、権利を要求しようたって、そんな虫のいいことがとおるものではない。
しかし、警察の力をかりず、法律の名をかりず、極秘裡に記代子をとりもどすには、どういう手段があるだろうか、と、せつ子もこれには考えこんだ。
彼女は放二と相談して、智恵をかりようなどゝは考えていなかった。放二のようなお人好しに、まともに相談しかけても、埒があくものではない。こういう人間には、ただ、命令するのが何よりなのだ。
「ずいぶん苦心したでしょう。でも、あなただから、捜しだせたのです。青木さんをごらんなさい。煩悶の様子は深刻そのものですけど、埒があかないじゃありませんか。ずいぶん疲れてらッしゃるようね。しばらく涼しい土地へ行って、ゆっくり休養してらッしゃい。十日でも、二週間でも、もっと長くてもかまいません。その間に、記代子さんのことは、ハッキリ話をつけておきます」
こう云って、せつ子は放二に多額の賞与を与えた。
「話をつけるッて、どんなふうに、でしょうか」
「それはあなたに用のないことです。あとは私が致します。秋口に、あなたが涼しい土地から戻ってきたとき、記代子さんも戻ってきています。ですが、記代子さんは、先からズッとそこにいたのですよ。あなたが、涼しい土地へ旅行していたので、しばらく会えなかっただけなのです」
放二は考えた。せつ子は行動的である。ためらわないのだ。言った言葉は必ず実現するだろう。たとえ、街のボスが相手でも。
せつ子の手腕は非凡であるが、彼女が往々相手の力を見あやまるのも事実なのである。ヨタモノ相手にその手腕を正当にふるいうるかどうかは疑問であるし、記代子のことを考えると、せつ子の考えているらしいことが、一そう妥当でないように見える。
しかし彼がどう言ってみても、せつ子の決意をかえさせるのは不可能なのだ。
「旅行の前に、四五日東京で休養してみるつもりですが、何か御用はありませんか」
「いいえ。ひとつも」
早く山の温泉へ行けとせきたてるように、せつ子は放二をきびしく見つめた。まさかムホン人と見破った目ではないだろう。放二は心にさびしく笑った。怒られてもかまわない。エンゼルをせつ子の敵にまわさぬように、彼はひそかに暗躍する覚悟をかためていた。
四
放二は必ず面倒が起ると予期していたが、自分の力で、どうする才覚があるでもなかった。
まず出来そうなことゝ云えば、エンゼルに、自分という人間を信じてもらうことだけである。しかし、マゴコロの袋のようなものがあって、それを開いてみせると人が信用してくれるという便利な手段はないのである。
自分を知ってもらうという手段があるだけだ。信じてくれるとは限らないが、自分の生活を見てもらって、ありのままの自分を知ってもらうことである。
放二は夜の新宿の仕事場へエンゼルを訪ねて二度目であった。エンゼルを自宅へ誘い、オデン屋でビールとツマミモノを買って、アパートで酒宴をひらいた。
連日雨もよいの悪天候で、女たちはアブレがちであった。
新宿から飲みつゞけで、エンゼルは酔っぱらった。
「ちょッと、お忍びのアパート住い。結構ですねえ。ハッハ」
エンゼルは醜い女たちには目もくれず、ルミ子の顔から視線をはなさず追いまわしていた。
「ぼくなんか、こうは、できませんや。腕がちがうんですな。ぼくは商売の都合で、野郎どもの面倒をみていますが、あなたは風流の志で、パンスケを養って、かしずかれていらッしゃる。貴族は女中が好き。ねえ。汚いアパートに身を落して、パンスケにかしずかれて、結構ですねえ。お金なんざア、左ウチワでころがりこむんだ。大金持の女社長に可愛がられてね。家なんざ、わざと買ってもらわないね、この人は。この汚いパンスケ・アパートへお忍びぐらし、乙な人だなア」
エンゼルの視線は、喋りながらも、ルミ子から、はなれなかった。
ルミ子には、エンゼルの薄ッペラな正体がアリアリ見えた。ただのヨタモノにすぎないのだ。記代子にほれているわけでもない。ヨタモノのチャチな下心があってのことだ。
およそヨタモノという連中が常にそうであるように、酔っぱらって、そこにちょッとした女がいて、タダでモノになりそうな事情があるから、モノにしようとしているだけのことである。
エンゼルは、放二を眼中に入れていないのである。また、放二によって代表された長平やせつ子のことも。成行きで、バツを合せているだけのことで、こんな青二才とつきあってやるからには、酒をおごらせて、女の世話をさせるのが当り前だと思いこんでいるだけなのである。
穏便に事が運ばなければ、放二を殴り倒しても、ルミ子とタダで遊んで、青二才にこんなところまでつきあってやった駄賃をかせいで帰るであろう。酔わないうちはそうでもないが、酔ったが最後、これがヨタモノの本性であり、駄賃をかせぐまでは、血を見たぐらいじゃひるまない。
「あんた、好男子ね。もてるわけね。私と遊ぶ?」
ルミ子はツマミモノを食いながら、エンゼルにナガシ目をくれた。
「お嫁さんを貰いたてだって、浮気ぐらいはするもんよ。ビールを飲むだけならいいでしょう。ちょッと、つきあってよ。ねえ。私、このビール二三本、もらって、いいでしょう?」
ルミ子は遠慮なくビールをぶらさげて立ち上った。エンゼルはニヤニヤ笑いながら、彼は有るッたけのビールを軽く両手にぶらさげて、立上って、だまって、ついてきた。
五
ルミ子はフトンを片隅へよせて、酒もりの場所をつくった。
「ヌキ忘れちゃった。あんた、歯でぬけるでしょう」
「バカ言え。とってこいよ」
「歩くの、ヤだなア。損しちゃった」
ルミ子はヌキをとりに放二の部屋へもどって、
「カギかけて、電燈消して、早く寝ちゃった方がいいわ。出てきちゃダメよ。インネンつけられると、いけないから。親分らしいとこなんて、ありゃしないよ。タダのヨタモンだわ」
ルミ子は苦笑をもらした。人殺し、強殺犯、そんなお客は見なれてきた。男にドスやピストルを突きつけられたこともあった。ヤブレカブレの男は何をするか分らない。しかし、屋敷もちのエンゼルは、たかがパンスケ相手に手が後へまわるようなことはしっこない。
ルミ子はヌキをぶらさげて部屋へもどった。
「あんた、レッキとした顔でしょう。ビールぐらい、歯でぬくもんよ。この部屋のお客さまはみんなそうするのよ。前科十二犯のオジサンは堅い物が噛めないほどボロッ歯だけど、ビールの栓は器用にぬいたわね。ヌキがなくッちゃ栓がぬけないようじゃ、悪い事はできないものね。泥棒に忍びこんで、ビールをみつけて、ヌキ探してちゃア、フンヅカマるでしょう」
「オレを泥棒あつかいに、しようッてのか」
「似たようなもんじゃない」
「フ。相当なことを云やアがる。落ちついて、ませたことを云うじゃないか。オレの女になれよ。ジュクでいゝ顔にしてやらアな」
「荒っぽいこと、きらいだもの。パンパンに生れついてるのさ。ノンキでグズな商売が好きなのさ」
「顔がきいて、楽にくらせたら、この上なしだろう」
「威勢のいいのがキライなのさ。威張りたくもなし。パンパンがいっとう楽で、面白いや。泥棒だの、人殺しの実話物きかせてもらッてさ。兄さん、人を殺したこと、ある?」
「フ。それが、どうした」
「私はね、目の前で人が死ぬの、一人で見てたことがあるよ。三べんだか、四へんだかね。たくさんの数じゃないけど、忘れちゃった。いろんなことが、こんがらかるから」
「フ、そんなパンスケがこのへんに居るッて話はきいたことがあったが、それがお前か」
「強殺だの喧嘩傷害だの、すごい人が話きかせてくれるでしょう。案外なもんね。どんなふうに死ぬもんだか、見てる人、ないわね。私はみんな見てたわ。ちょッと見落しても悪いような気持だもの。なんでもないもんよ。呆気なく、死んでるものよ。ほんとかな、と疑ったのもあったわ」
エンゼルはつまらなそうにビールを呷っていたが、
「自殺なんてものは、つまらんものにきまってらアな」
ちょッと凄んでみせた。
「返り血をあびて真ッ赤にそまる果し合いのようなものは、オレがやっても、目がくらんだ気持にならアな。ひどく冷静でもあるし、泡もくらってるものよ」
「どんな悪いこと、してきたの? ずいぶん、お金持ちだってことじゃないの。なんで、もうけたのさ」
六
ルミ子は職業的に、男について階級的な区別を持たなかった。社長と社員、ボスとチンピラ、どっちがどうという区別はない。
彼女は男を大別して、金放れのいい人とそうでない人、ウヌボレの強い男とそうでない男、執念深いのとそうでないのと、だいたいそれぐらいに区劃していた。
金銭について、金に汚い男というものは論外である。パンパンに払った金が惜しくなって、ビールをのんだり物をたべて女に支払わせていくらかでもモトをとろうとするのなどはよい方で、脅迫し、時には本当にクビをしめても金をとり返して行こうとする。それが愚連隊などでなくて、表通りに店をもった商人だの、工場主だの、若いサラリーマンだの、世間では虫も殺さぬ善人で通った連中がそうなのである。
あなたが好き、だとか、又遊びにきてね、というのは、この社会で当り前の挨拶だが、通り一ぺんの挨拶をかけられただけで、恋人のように思いこみ、二度目からは刃物で追いまわすような嫉妬深いウヌボレ屋もいる。そして、刃物をおさめる代償としては、一文も使わずに、遊んで飲んで食って帰ろうというのである。
世間では堅気の善人で通った人がこんなだから、遊びなれた悪党は弱い者にはオトコ気もあり立派な遊びをするかというと、とんでもない話なのだ。
小悪党というものは階級意識の強いものだ。パンパンのような社会的地位がゼロ以下の合法的でない存在に対しては、彼らはいたわりをもつどころか、全人格を無視してかかるのが共通の考え方である。パンパンとはタダで遊んで、おごらせて、バ
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