けるまで、神宮外苑をグルグル歩きまわっていたのである。始電がうごきだして、新宿駅で別れたとき、疲れきって、物を言う力もなかった。
 そのときも、記代子は怒った。数日間、放二に話しかけなかった。
 深夜から夜の明けるまで外苑を歩かされたのだから、怒るのもムリがないと思っていた。しかし昨夜はそれほどのことではない。けれども、怒っているとすれば、アパートを見せないせいだ。
 そんなことで怒られるとは、放二は悲しいことだった。
「君は奥さんがあるのかい」
「は?」
 放二はビックリして顔をあげたが、
「いいえ」
 長平を見つめて、答えた。
 澄んだ目だ。弱々しい目だが、正しい心と、よく躾けられた情操がみなぎっている。こんな澄みきった目の青年を疑るなんて、オレもどうかしているなと長平は内々苦笑した。
「記代子がそんなことを疑っているらしいのでね」
 長平は笑った。
「どうも、娘がさ。人に女房があるかないか気に病むなんて、怪《け》しからん話だがね」

       三

 しかし長平は笑ってすますワケにもいかなかった。
「君は御両親がなかったのだね」
「ええ。一人ぼっちです。ぼくは棄て子なんです。ぼくの名も、拾って育ててくれた人がつけてくれたのです。養父母は三月十日の空襲で死にました」
 その来歴はかねて長平もきき知っていた。しかし、何度きいても、解せないのだ。放二は心も情操も正しいように、容貌風姿も貴公子であった。拾われて育てられた棄て子が、そして、終戦後は孤児となり苦学して私大の文科をでたという荒波にもまれ通した子供が、なんのヒネクレた翳もなく、若年にして長者の温容を宿しているというのがわからない。
 記代子も戦災で父母を失っていた。それ以後は叔父の長平がひきとって、親代りに育てたのである。
 記代子を勤めにだしたとき、放二と愛し合うようになっても悪くはない、むしろ期待するような気持があった。それぐらい放二の人柄を愛していた。
 しかし記代子の観察も、女らしくて面白い。放二は人の着古したものを貰いうけて身につけていたが、それを整然と着こなして、人に不快を与えない。天性の礼節が一挙一動に行きとどいているせいでもある。けれどもシサイに見ると、いかがわしいところがあった。
 今もって、すりへってイビツな軍靴をはいている。何十ぺんツギをあてたか分らぬような、雑巾のような靴下をはいている。
 はじめて見た人は、当節の貴公子はタケノコだから、と、かえって痛々しく思うかも知れないが、毎日見なれている者には気にかかることであった。
 放二の慎み深い気質では、自分の破れ靴下が気にかかるのは当然で、訪問先で坐り様がいかにも窮屈そうなのは、靴下を隠すようにしているせいだ。
 放二の給料は年齢のわりに多かったし、長平から貰う手当もあるので、靴や靴下が買えないほど窮迫するイワレがなかった。
 誰も見てやる人のない孤児のせいだ、と記代子は考える。これは温い見方であった。
 しかし、腹が立つと、冷めたくアベコベに考える。孤児で独身の放二は誰の生活を見てやる必要もないのである。青年たちはお酒で貧乏しているが、放二はお酒も好きではない。それだのに、靴や靴下を買うお金まで何に使っているのだろう?
 そこで記代子は結論する。女がいるのだ、と。悪い女と秘密の家庭を持っているのだ。何年間もドタ靴や破れ靴下をはかせておくような悪い女と。
 長平は記代子の見方にも道理があると考えた。彼が与える手当だけでも世間並の生活はできるはずだ。タシナミのよい放二が、なぜドタ靴や破れ靴下を新調することができないのだろう。
「娘の感覚は特殊なものがあるよ。ねえ、北川君。何かしら嗅ぎつけたことがなければ、君に細君があるなんて疑ぐりやしないぜ。奴め、何を嗅ぎつけたのだろう?」
「はア」
 放二はみんな長平に語ろうと思った。記代子にもれるかも知れないが、知られて困るようなことでもないのだ。

       四

「べつに秘密にしていたワケじゃないのです。男の友達はみんな知ってることなんですが、女の方には、知られていけなくはありませんが、柄のよいことではありませんから」
「なんだい、それは?」
「ときどき、女たちが遊びにくるのです」
 放二は微笑している。長平はそれを素直にうけとった。女たち。放二は「たち」と云ったはずだ。なにか意味があるに相違ない。
「女たち、ね」
「ええ。泊りにくるのです」
「女たちがかい」
「ええ。パンパンです」
 長平もちょっと二の句がつげない。この青年からパンパンという言葉をきいても、全然不釣合いで、架空の話をきかされているようである。パンパンが遊びにくる。泊って行く。アベコベだ。しかし、戦後派の神話的な現実が実存しているかも知れないので、長平も思い余った。
「君、パンパンと同
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