だということを、全然忘れているのである。
記代子の背に青木の影が重なっているだけでもイヤだったのに、エンゼルの影も重なっている。動物臭がプンプン匂っている。それはみんなバカのせいだ。
「あなた、今になって気がついたのは、そんなことなの? そのほかに、気づかなければならないことが、ないのかしら?」
「でも、憎んでらッしゃるでしょう。それに答えてよ」
「さア。憎んでいますか。あなたが憎まれてるンじゃないでしょうか」
「おんなじことよ」
「あなたの場合、憎まれているか、いないか、そんなことを考えるのが問題ではないのよ。人々に憎まれる原因について、考えなければならないのよ。あなたも散々苦労なさッたでしょう。そのアゲク、私に憎まれているか、いないか、ようやくそんなことだけ気がつくようになったとしたら、ずいぶん悲しいじゃありませんか。人々はあなたに期待しています。あの大きな試錬の中から、あなたが何をつかみとってきたでしょうか、と。あなたの場合、私という存在は、とるにも足らぬ問題よ。あなたは男性というものに、どんな新しい考えを、つけ加えるようになりましたか。青木さんについて、エンゼルについて、あなたが新しく知り得たことは、どんなことでしたか。それについて、真剣に考えたことがありましたか」
二
せつ子の言葉は利巧ではなかった。
人は誰しも忘れたいことがあるものである。特に記代子の場合などは、悪夢のたぐいで、遺恨は骨髄ふかく血みどろに絡みついているのだ。遺恨の深さというものは、バカと利巧にかかわりなく、差のあるものではない。
その経験を生かせ、というのは、理窟はそういうものではあるが、人間の実状に即したものではない。利巧でも、そうはいかない。
まして男女関係というものは、ハタの目からは割りきれても、当人にとっては永久に謎という性質のものである。人間関係というものは合理化しきれるものではない。常に個々独特である。
悪夢は忘れるにかぎる。バカは死ななきゃ治らない、というのはその人間の墓碑銘としては、よく生きた、という意味に当っているかも知れない。バカでなかった人間よりは、精いっぱい生きているのだ。精いっぱい生きて利巧であったという奴はまずいない。
しかし、人間は、人のバカさ加減まで、いたわってやるほど、親切である必要もないにきまっているだろう。
記代子はエンゼルを忘れようと思っていた。それはエンゼルを悪党と断定した意味でもないし、エンゼルを愛せなくなったという意味でもない。理論や感情を超えた一ツの気配がわかるからだ。エンゼルが自分を愛していないという気配、いくらエンゼルを思ってもムダだという気配がわかるからである。
記代子が経験から得た結論はそれだけであった。彼女の考えも感情も、そこに突き当って、引き返す。つまり、その壁にぶつかって、新しく出発するのである。
そして、壁にぶつかって引き返してきた新しい感情は、青木か、あるいは、そのほかの新しい何か、そう考えがちであった。それは逞しく、強い考えではない。ややヤケ気味の、絶望的なものでもあった。
しかし、絶望的な考え方は、むしろ地道なものであった。彼女は時々空想的なことを考えた。人に使われる身から離れて、独立した職業についてみたい、という考えだ。会社員とか、ダンサーとかいうのではなく、自分がその店の主人公、というような空想であった。そのへんまでは、まだ地道かも知れなかったが、すると記代子はその次にこう考えている。お金持になりたい。そして、誰に気兼もなく、自由奔放に生きたい。
その空想には、極めて現実的な限界があった。彼女の最も近い身辺に、そういう女が実在しているのである。あまり身近かなために、感情的にせつ子を過少評価することは容易であったが、彼女と自分との身にそなわった位の差というものを実感的に脱けだすことは、まず不可能なことであった。
しかし、無理ムタイに脱出できるたった一つの口があった。それは、怒り、逆上である。
記代子は半死半生の経験によっても、冒険や危険に怯える心を植えつけられはしなかった。むしろ、なつかしみさえした。彼女があの怖しい経験から教訓を得たとすれば、あのようなことを再びしたくないことではなくて、あのような場合に処する技法に対する期待であった。それも空想の一つである。かすかな期待はあっても、勇気はないし、自信もない。
記代子はせつ子と睨み合った。彼女を言い負かす言葉はない。しかし、もうこんな家にいるのはイヤだ。今日かぎり、とびだすのだ、と考えた。むしろ閉じこめられていた陰気な空に青空がのぞけたような気がした。
彼女は覚悟をきめると、だまって自分の部屋へゆっくり戻って、カギをかけた。
三
記代子はさっそく家出の仕度にと
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