をつけられたんだそうだね。欠勤届を持たせてよこしてね。皮肉な先生さ。タキシードにシルクハットの晴れの日にあいにく美貌に傷をつけまして相すみません。アハハ。あの人は、めぐりあわせまで皮肉に回転するらしいや。しかし、ひどいぜ。鬼瓦みたいな顔さ。喋るのも不自由なのさ。見舞いに行って、気の毒したよ」
「どんなことでインネンつけられたのですか」
「わけがわからんそうだがね。とにかく一撃のもとにノビたんで、かえって良かったんだそうだ。悪酒の酔いは、ノビたぐらいじゃ醒めないそうだぜ」
 放二の頭には、キッピイの謎の言葉がからみついていた。青木のなぐられたのはキッピイの店らしいが、彼女はそれを言わなかった。言う必要がないことも確かであるが。
 しかし、キッピイに会う前に、そのことを知っていたら、と、放二は残念がった。五人目の人物の多少の手掛りにはなったであろう。放二は、ダンスホールでキッピイの居場所をきいたとき、切符売りの女が彼に云った忠告も忘れていなかった。キッピイには悪いヒモがついているらしい。ヒモと五人目の人物は、たぶんツナガリがあるようである。
 放二はせつ子に報告した。
「とにかく、生きておられることだけは確実のようです」
 たったそれだけであるが、最初で、全部の聞きこみであった。とにかく、はじめて足跡らしいものを突きとめたのだが、そこでとぎれで、あとがない。
 しかし、せつ子はよろこんだ。
「きっと突きとめて下さると信じていたわ。私の信じた通りです。こんなうれしいこと、ないわ。あと一歩です」
 放二は、こまりきって、
「このさきが雲をつかむようなんです」
「いゝえ。ハッキリしています」
「誰でしょうか。五人目の男は?」
「それは問題ではないのです。キッピイが知っています。男の名ではありませんよ。記代子さんの居場所を。あなたはそれを突きとめればよろしいのです。五人目の男のことは、どうだって、かまいません」
 理窟はそうにちがいなかった。たしかにキッピイは知っている。放二にはいろ/\のことが考えられた。記代子には青木のほかにも男の友だちがあったのかも知れない。あるいは青木は社内でだけの恋人で、本当の恋人は五人目の男かも知れなかった。青木がなぐられたのは、そのせいかも知れないし、キッピイが、放二と記代子との関係を気にしていたのも、彼女がヒントを与えたのは二人の関係がなんでもないと分ってからであったのも、それを裏書きしているように思われた。
 しかし、キッピイの口からは、もうあれ以上きくことができないだろうと放二は思った。一筋縄ではいかないらしいが、とにかく、やってみるだけだ。
 彼は、せつ子が自分に与えた忠告を、そっくり、せつ子に返しておくのが何よりだと思った。せつ子は何も知らない方がいいのだ。記代子の過去も、現在も。青木にも知らせない方がいいのだ。彼ひとり突きとめて、自分の胸に隠しておけばすむことだ。

       三

 放二は早版の夕刊新聞を買いこんで、電車にのった。一般の退社時刻には早すぎる時間であった。キッピイのところへ立ち寄って、思いきって訊いてみようかと思案したが、新宿の喫茶街の開店時刻には間があるし、キッピイの自宅へ行けば、行き違いになる時刻であった。
 キッピイが五人目の名を言うことができないのは、なぜだろう? 人生の裏街では、どんなことでも有りうるのだ。どんな考えられないことでも、それが実在するときには、なんでもない顔をしているのだ。そして、全てが在りうるのである。
 青木のほかにも記代子の恋人がいたかも知れぬ、ということも、放二にとっては、なんでもなく実在しうることであった。それは記代子の値打に関することではなかった。人間が元々そういうものなのだ。しかし、同時に、万人がいたましくもあり、高くもあるのだ。
 夕刊を読んでいると、映画欄の下段に、キッピイの店の広告がでていた。麗人を求む、とある。記代子が酒場で働く意志があるとすれば、あの店はよろこんで使うだろう。しかし、あの店にいないにしても、他の店にもいない理由にはならない。礼子の観察によれば、記代子は女給の生態が、つまらなくなかった、おもしろかった、というのである。
 放二の部屋には、ルミ子や八重子や数人の女たちが、生菓子と果物をたべていた。ほかの女たちはシュミーズひとつであったが、ルミ子は服をつけていた。いつもルミ子はそうであった。
「記代子さんて方の屍体、まだ、あがらないんですか」
 八重子が放二にきいた。
「え? 記代子さんが自殺したんですか」
 放二はおどろいて訊きかえしたが、彼女らが記代子のことを知るわけがないことに気がついた。今よんできた新聞にも、そんな記事はでていなかったはずである。
「誰かそんなことを言った人があるんですか」
 八重子は笑った。

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