振りむいて、駈け去った。

       六

 記代子の気まぐれな感傷だろうと青木は思った。放二によせる胸の思いが、迷路をさまよって出口をふさがれているせいだ。
 翌日、青木は深くこだわらず、出社した。記代子の様子にも、ふだんと変りは見えなかった。
 午後になると、どの部屋も暑くなる。青木はトイレットへ顔を洗いに行く。いつもの彼の習慣だ。ゆっくり顔を洗って、ふと隣りをみると、水を流して、手を洗うフリをしながら、こッちを見ているのは記代子であった。
「ヤ」
 顔をぬらしているから、物を云うことができない。タオルで顔をおさえる。ふき終ると、視線がかちあった。記代子の目は、食いこむようであった。
「今日、放二さんをさそったら、承知しない」
 言いすてると、すぐふりむいて、立ち去った。昨夜のように駈け去りはしない。もっと確信にみちて、落ちついた態度であった。
 偶然の出会ではない。青木がトイレットへ立つとき、記代子は部屋にいたのだから。記代子は追ってきたのだ。
 青木が部屋へもどると、記代子の姿は見えなかった。
 記代子が戻ってきた。
「ライターかして」
 笑いながら、青木に云った。ライターをかりて、自分のデスクへもどり、タバコに火をつけた。イスにもたれて、タバコをふかしている。まもなく、むせびはじめた。タバコをすったことがないのである。苦笑して、火をもみつぶした。
「ハイ。あげましょう」
 ピースの箱とライターを青木の方へ投げてよこした。
 青木はかなり窮屈な思いにさせられた。記代子の言葉にこだわったのだ。そして、放二によけいなことを話しかけた。しかし、帰り仕度をするときには、放二を誘うことができなかった。
「ノドにつかえていたようね。放二さんを誘う言葉が」
 記代子はあとでひやかした。
 青木は浮いた気持にもなれなかった。のむビールのにがさが浸みるばかりである。
 酔いがまわると、腹をすえて、
「記代子さんや。長平さんの姪御さんだけのことはあるよ。平凡なお嬢さんのような顔をして、頓狂なカラ騒ぎをやらかす人だ。しかし、とにかく、文学的でありすぎるよ。いかに良き人を思いつめたアゲクにしろさ。痴話喧嘩の果に、ぼくのようなオジイサンを口説くのは、ひどすぎますよ。外国の小説や映画にはありそうだがね。女王だの公爵夫人というようなお方がさ。王様だの公爵と痴話喧嘩のあげくに、奴隷だの黒ン坊に身をまかせて腹イセをするというような話がね。それにしても、ぼくに白羽の矢をたてるというのが、頓狂すぎるというものだ。お嬢さんや。よく、おききよ。あなた方の年頃では、遊びというものを、みんな軽く、同列のものに考えているのだね。しかし、男女の遊びは、別のものですよ。とりかえしがつかないのだからな」
「私は、遊びではないの!」
 記代子は叫ぶと、すぐ立上って、大股に歩き去ってしまった。
 青木は別の店で焼酎をのんだ。そして宿へもどると、彼の部屋に記代子が待っていた。

       七

 青木はわざとドッカとアグラをかいて、うちとけてみせて、
「やれやれ。疲れるなア。遊びたい盛りのお嬢さんが退屈して姿を消すまでつきあってあげるのは。なんて、逞しい根気だろう。まさしく、面白ずくの一念だね」
「そう?」

「まアさ。あなたは昨日から怒りすぎるよ。もっと平静に話しあいましょう」
「あなたが、怒らせるのよ」
「怒らせるつもりで言ってるんじゃないんだがなア」
「いま、なんて云った?」
「……」
「面白ずくって、なによ。そんなふうに、見えて? 私、遊んでやしないわ。離婚して、バアで働いて、礼子さん、甘チャン。文学的すぎるわ。私も、そんなに見えて?」
 これが記代子の本心だろうかと青木はいぶかった。
 記代子の恨みは礼子をめぐり、礼子に比較して自己を主張しているのである。礼子のバアでも、記代子の態度は際だって大人びており、対立的な感情が尖鋭であった。
 記代子の意識が礼子をめぐっていることは、青木によせる感情が、放二のせいばかりでなくて、かなり本質的なものであることを表している。そう思っていいのだろうかと青木はいぶかった。
 礼子の離婚の原因が、長平のせいだということも、記代子は知っている。そして、礼子を少女趣味だと面罵しているのだ。
 それらのことを考えると、記代子は礼子との年齢の差を無視しており、礼子が長平によせる対等の感情で、青木に対しているように思われた。
 してみると……青木は考えた。記代子の愛情の本当の根は、長平にあるのではあるまいか。えてして少女というものは、まず肉親に愛情をもつものだ。どッちにしても、彼自身が本当の対象だとは思われなかった。
「ぼくの昔の奥さんが長平さんにあこがれて離婚したということ、誰にきいたの?」
「そんなことが知りたいの?」
「なるほど。
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