らず、ということだ。ありがたい。これで、オレは、ホッとしたなア」

       十一

「これが分っただけでも、オレは安心して、東京へ帰れるよ。覆水盆にかえらず。人倫は水のように自然のものなんだ。ひっくりかえって流れた水は、どう仕様もねえや。もっとも、自然に元へ集ってくれるなら、それも良しさね。とにかく、自然でなくちゃア、ダメなんだ。しかし、人間はミレンですよ。覆水を盆にかえそうとしたり、盆にかえりうるものと希望をすてなかったり、ね。思えば、ぼくはそのミレンとナレアイの遊びをしていたようなものさ。ねえ、長平さん。ぼくは老いて益々迷いに迷う人間になりましたよ。しかし、迷いのタネを過去に持ってはダメなんだね。白骨をさらすまで、水のように、迷いはただ盲メッポウ先へと流れるべきものですよ」
 青木の苦笑は明るかった。
「ぼくはちかごろ、三方損ということを考えていたですよ。ただ今、覆水盆にかえらず、を会得するに至って、三方損の考えが生きたものになりましたね。喧嘩両成敗はあたりまえのことでさア。両成敗、両方損、両名は当事者だから、文句なしに、成敗や損をあきらめるのさ。ところが、ここに、すべて物事には当事者ではない三人目がいて、三成敗や三方損というマキゾエをくらって、ついでに損の片棒だけをかつがされている運のわるい奴がいるものさ。まったくですよ。人生の諸事諸相には、かならずこのトンマな三人目が隅ッこでブウブウ言っているものさ。長平さんにあてつけるわけではないが、いつのまにやら、長平さんと梶せつ子がよろしく両成敗の当事者となっている隅ッこで、いつのまにやら三人目の一方損をひきうけてブウブウ言っているのがワタクシさ。御両氏を両成敗と言っては悪いが、しかし、人生、すべてはいずれ両成敗ですよ。それは分って下さるでしょう。ヒガミではありませんやね。だが、長平さん。オレみたいに、人生の大半を三方損の三人目で暮してきた奴はいないよ。三方損の運命に、甘んじるべきや、否や、これ実に、小生一生の大問題、面壁九年の一大事であったです。しかし、面壁、一週間足らずで、解決したね。三方損。よろしい。ねえ、長平さん。ハッキリ、よろしいのです」
「そう簡単には、いかないだろうよ」
 長平は机上から一通の封書をもってきた。
「この速達は、今、きたところだよ。北川が重病でねこんだそうだ。死ぬかも知れないらしいね。
前へ 次へ
全199ページ中157ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング