なんてものは、ありやしない。しかし、又、あるといえば、生活の全部が恋だけなのかも知れなかった。
 ルミ子は自分の心を考えてみた。彼女は放二を恋してはいなかったが、世界で一番放二の偉さを知っている者があるとすれば、それは自分だろうと思った。彼女は放二に自分の魂をゆるしていたが、放二も彼女のためにその魂をゆるしていると信じることができるのだ。この上の何物をもとめることもないではないか。放二はそういう人なのだ。己れの魂を彼にゆるす者は、彼の魂を己れにもゆるされていることを見ることができるのである。
 キッピイの店へ女給にでて秘密をききだしてあげたいというのは、深い動機からではない。八重子はそれを恋のせいであるかのように腹を立てゝいるけれども、そう思われるものがもしも自分にあるとすれば、それは自分の大きな罪だと言わなければならなかった。
 放二を恋するというようなことが、他の人々への義理からではなく、自分の正しい生き方として、許さるべきことではないのだ。放二の偉大な魂を知りつつあることの満足よりも大きなものが有り得べきではないのだから。
 彼女は人々に、恋のせいだと見られたことが羞しかったし、放二にはすまないことだと意外に深く気に病んだ。
「なんだか差出がましくッて、私だって、キザッぽくッて気がひけるのよ。あんまり羞しがらせないでね。でも、私が女給にすみこめば、秘密をききだすこともできるし、そうでもしなければ、キッピイさんはタニシみたいに口をつぐんでいるだけだ。兄さんのために何かしてあげたいというんじゃないわ。私には出来ることらしいから、その義務を果すのさ。そして、それが私には面白そうに見えるからのことさ。私が、そうしちゃ、いけないの?」
 ルミ子は珍しくムキになっていた。そして、ふいに、涙ぐんだ。

       五

 その晩から、ルミ子はキッピイの店で働いていた。
 この店の主人夫婦は、この商売の主人にしては、ちょッと柄が変っていた。男の方は五十がらみの年配であるが、昔は手堅い会社かなにかに実直な事務をとっていたような、グズで気のきかないノンダクレという感じである。女はわりに若くて三十三四と見うけられるが、いくらかこんな商売をしていたように思われる程度のおとなしそうな女であった。ルミ子を雇い入れるとき、男主人がなんとなく真剣な顔付で、
「このへんの流儀で、ヒッパリをや
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