雑念を離れ、屡々《しばしば》夜の白むのも忘れてゐたといふことである。
 六袋和尚は六日先んじて己れの死期を予知した。諸般のことを調へ、辞世の句もなく、特別の言葉もなく、恰《あたか》も前栽へ逍遥に立つ人のやうに入寂した。

 参禅の三摩地を味ひ、諷経念誦の法悦を知つてゐたので、和尚の遷化《せんげ》して後も、団九郎は閑山寺を去らなかつた。五蘊《ごうん》の覊絆を厭悪し、すでに一念解脱を発心してゐたのである。
 新らたな住持は弁兆と云つた。彼は単純な酒徒であつた。先住の高風に比べれば百難あつたが、彼も亦《また》一生|不犯《ふぼん》の戒律を守り、専ら一酔また一睡に一日の悦びを托してゐた無難な坊主のひとりであつた。
 弁兆は食膳の吟味に心をくばり、一汁の風味にもあれこれと工夫を命じた。団九郎の坐禅諷経を封じて、山陰へ木の芽をとらせに走らせ、又、屡々蕎麦を打たせた。一酔をもとめてのちは、肩をもませて、やがて大蘿蔔頭《だいらふとう》(だいこん)の煮ゆるが如く眠りに落ちた。ことごとく、団九郎の意外であつた。一言一動俗臭|芬々《ふんぷん》として、甚だ正視に堪へなかつた。
 一夕、雲水の僧に変じて、団九郎は山門をくぐつた。折から弁兆は小坊主の無断不在をかこちながら、酒食の支度に余念もなかつた。
 雲水の僧は身の丈六尺有余、筋骨隆々として、手足は古木のやうであつた。両眼は炬火の如くに燃え、両頬は岩塊の如く、鼻孔は風を吹き、口は荒縄を縒り合せたやうであつた。
 雲水の僧は庫裏へ現れ、弁兆の眼前を立ちふさいだ。それから、破《わ》れ鐘《がね》のやうな大音声でかうと問ふた。
「※[#「口+童」、第4水準2−4−38]酒糟《とうしゆそう》の漢(のんだくれめ)仏法を喰ふや如何に」
 弁兆は徳利を落し、さて、臍下丹田に力を籠めて、まづ大喝一番これに応じた。
 と、雲水の僧は、やをらかたへの囲炉裏の上へ半身をかがめた。左手に右の衣袖を収めて、紅蓮《ぐれん》をふく火中深くその逞しい片腕を差し入れた。さうして、大いなる燠のひとつを鷲掴みにして、再び弁兆の眼前を立ちふさいだ。
「※[#「口+童」、第4水準2−4−38]酒糟の漢よく仏法を喰ふや如何に」
 雲水の僧はにぢり寄つて、真赤な燠を弁兆の鼻先へ突きつけた。弁兆に二喝を発する勇気がなかつた。思はず色を失つて、飛び退《の》いてゐた。
「這の掠虚頭の漢(いんちき
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