閑山
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)愛《め》づるまま
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一生|不犯《ふぼん》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+童」、第4水準2−4−38]酒糟《とうしゆそう》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)きり/\と
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昔、越後之国魚沼の僻地に、閑山寺の六袋和尚といつて近隣に徳望高い老僧があつた。
初冬の深更のこと、雪明りを愛《め》づるまま写経に時を忘れてゐると、窓外から毛の生えた手を差しのべて顔をなでるものがあつた。和尚は朱筆に持ちかへて、その掌に花の字を書きつけ、あとは余念もなく再び写経に没頭した。
明方ちかく、窓外から、頻りに泣き叫ぶ声が起つた。やがて先ほどの手を再び差しのべる者があり、声が言ふには「和尚さま。誤つて有徳の沙門を嬲り、お書きなさいました文字の重さに、帰る道が歩けませぬ。不愍《ふびん》と思ひ、文字を落して下さりませ」見れば一匹の狸であつた。硯の水を筆にしめして、掌の文字を洗つてやると、雪上の陰間を縫ひ、闇の奥へ消え去つた。
翌晩、坊舎の窓を叩き、訪ふ声がした。雨戸を開けると、昨夜の狸が手に栂《ツガ》の小枝をたづさへ、それを室内へ投げ入れて、逃げ去つた。
その後、夜毎に、季節の木草をたづさへて、窓を訪れる習ひとなつた。追々昵懇を重ねて心置きなく物を言ふ間柄となるうちに、独居の和尚の不便を案じて、なにくれと小用に立働くやうになり、いつとなくその高風に感じ入つて自ら小坊主に姿を変へ、側近に仕へることとなつた。
この狸は通称を団九郎と云ひ、眷族では名の知れた一匹であつたさうな。ほどなく経文を暗《そら》んじて諷経に唱和し、また作法を覚えて朝夜の坐禅に加はり、敢て三十棒を怖れなかつた。
六袋和尚は和歌俳諧をよくし、又、折にふれて仏像、菩薩像、羅漢像等を刻んだ。その羅漢像、居士像等には狗狸に類似の面相もあつたといふが、恐らく偶然の所産であつて、団九郎に関係はなかつたのだらう。
いつとなく、団九郎も彫像の三昧を知つた。木材をさがしもとめ、和尚の熟睡をまつて庫裏の一隅に胡座し、鑿を揮ひはじめてのちには、
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