ての意味があるが、それは一つの手法としてのことであつて、手法を差引いて何が残るか、これは疑問だ。
サルトルの生に対する消極的態度からは、私は一流の文学は生れる筈はないと信ずるもので、さういふ意味では、文学はともかく生存の讃歌、生存自体を全的に肯定し、慾念を積極的に有用善意の実用品にしようとする人生加工の態度なしに、文学の偉大なる意味は有り得ない。
サルトルが共産党員だなどゝいふのでサルトルの文学に文学以外の読み方をする日本の批評家の精神的貧困は哀れビン然たるもので、彼の文学は凡そ共産党などゝいふものではなく、非常に安易な絶望、非常に安易な欲望の否定で、あはれむべきオプチミストであるにすぎない。彼がアナーキストだといふなら話は分るが、共産党員とは、さういふ政治的救済を信じて、あの小説を書いてゐるとは、デタラメ千万、いゝ加減な話である。
然し彼はいはゞ小説家ではないのだらう。小説といふものを、何を書くか、書き唄はずにゐられない性質の天来の作家ではなく、小説を手法的に探し、新手法といふものに照し合せて小説らしきものをデッチあげてゐる、だから手法的にはフランス恋愛小説史に歴史的な意味があ
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