それは鯨が常にイワシだけ追っかけ、甚平ザメがマグロを専門に食うのと同じようなものだ。一言にして云えば、彼らは、どこまでも、利巧で、温和で、心の正しい魚にほかならないのである。
 漁師町のこの性格を知ることは、これから私が語る話に深い関係があるのである。彼らは心が正しいから、心のよこしまな人とつきあうことができる。どんな善良な人とでも、どんな邪悪な人とでも、つきあうことができるのである。
 まったく伊東市は不思議な町だ。温泉町と漁師町と、まったく性格のアベコベのものが一しょになって、とにかく調和しているのである。温泉町では名士だの富豪だのと俗世の評価を後生大事に大さわぎをするが、漁師町では人間族があるだけのことだ。温泉町では戦災で日本中に家と部屋が不足しているところから、五ツ間ぐらいの家が二百万円だったり、二間の貸部屋が、七千円、一万円などゝ吹っかけられたりするが、烏賊虎さんの二階や離れには、どこの何兵衛だかハッキリしない他国の人が全然タダで部屋をかりているのである。部屋があいているから、タダで貸してやる。無い部屋をムリして貸してやるわけではないからタダだというだけのことで、烏賊虎さんのオカミサンの手がすいている時は部屋の掃除もしてやるし、寝床をしいてやったり、たたんでやったりもしてくれる。ただし、手がすいている時だけ。全然ムダがないだけのことだ。
 こんなことを書くと、漁師町のちょッとした善良さを言いはるために、私が途方もない誇張を弄して、架空の善人をデッチあげているように思われるかも知れない。まったく私の友人たちも、烏賊虎さんが風来坊にタダで部屋を貸している話をきいて、それはよッぽど超特別の阿呆だろうと考え、広い世間にそんな人間が一人ぐらいは居ることもあるだろうと渋々承認する程度なのである。漁師町の全部が烏賊虎さんとまったく同じ気分であると云っても信用してくれないのである。しかし私は世間のくだらぬ常識には、こだわらぬことにしよう。
 漁師町では俗世の名士や富豪は問題としないけれども、単純に人間族だけで構成されて、特例がないかと云えば、そうでもない。
 この漁師町の方言では、偉い、ということを、ヅネエ、という。烏賊虎さんはヅネエなア、というように用いる。どういう人がヅネエかというと、それは、まったく魚に関したことで、天下の政治や巨億の富のあずかり知るところではない。そして、その名跡は子々孫々に語りつたえられるのである。
 たとえば、烏賊虎さんが、そうである。今の烏賊虎さんがヅネエわけではなくて、三代前の先祖が、誰もまだ見たこともない一間ほどの足のある烏賊を釣った。釣りあげることができないので、ついに海中にとびこんで組打ちして仕止めた。
 ヒコさん――三代前は鎌田彦太郎と云ったが――ヒコさんはヅネエ、ということになって、烏賊ヒコ、その時以来、鎌田家は、烏賊ノブ、烏賊タツ、烏賊虎と伝承し、虎さんの長男、鎌田吉五郎はやがて烏賊キチとよばれるようになるはずである。
 タイ釣りの名人を先祖にもつ瀬戸家は代々タイ七とかタイ平などゝよばれ、マグロ久やクジラ市やサメ六の先祖はそれぞれこれらの巨大な魚獣を相手に栄光かがやく戦績を残しているわけだ。アジ文、野口文之助は現役で、つまりアジ家を起した初代であり、不漁になやむ晩夏、ヤケ半分にイワシを探して大島方面を回航するうちに、時ならぬアジの大群を発見した。彼は若い者に後事を托してアジを追わせる一方、自らはザンブと海中にとびこみ、約一里の海を泳いで今井の浜にあがり、天城山麓をヒタ走りに走って、急を伊東海岸につたえた。伊東の町が時ならぬアジの大漁に賑ったのは彼の一大功績であり、文さんはヅネエ、アジ文の名が生れることとなったのだ。かくて彼の子々孫々、アジの名を冠してよばれ、長く父祖の功績をつたえることとなるのである。
 私はこれをシテキするのが苦痛であるが、漁師町の人々は若干体質が畸形である。それは第一に彼らがガンメイ固陋な美食家であること――つまり、偏食からきている。小さな木造船(十五トンから四十トン程度)で赤道をこえ(ただし昔の話。戦後は漁区が縮小されている)一ヶ月、二ヶ月の遠洋漁業にでる彼らは生水のほかに米と塩しか積むことができないし、伊東は元来山地であるから、耕作すべき畑に乏しく、陸上の日常に於ても充分に野菜をとることができない。否、充分にあっても、彼らは野菜を好んで食べないかも知れないのだ。実に彼らはガンメイきわまる美食家だから。
 又、彼らの勤労の性質として、主として上体を使う。大謀網をあげるにも、小舟に坐して、エイサ・エイサ満身の力でひきあげる作業であり、概ね、漁業の作業はこれに類している。彼らは魚と同じように軽々と海を泳ぐけれども、彼らの上体が逞しく発達しているにくらべて、下肢が若干退化していることを認めざるを得ないのである。したがって、漁師の体格は健全とは云われない。寒天に於ても水中に作業する勤労の性質から、豪快であると共に不健康でもあり、たとえば戦争する兵士のように、生活全般がむしろ病的傾向を帯びているのである。
 こんなわけで、漁師町でも、温泉町の人々と同じぐらい医薬が必要でもあるのである。したがって、一人の漁師――烏賊虎さんが、一人の医師に深いツナガリをもつに至るのもフシギではない。
 烏賊虎さんは赤城風雨先生を信仰していた。それは医者と患者のツナガリをこえ、人格的な讃美カツゴウに到達していたものであるが、それは友人Qに於ても同じことであったろう。
「赤城先生には、こんな患者がたくさんいました。つまり、信者です。まったく人格によるものでして、中には、先生のミタテはダメだが、お人柄が忘れられないなどゝいう信者もいました。これでは先生も浮かばれません。だいたい医者が、医学上の識見でなくて、人格上の崇敬をうけるなどということは、本人にとって満足なことではありません。別して赤城先生はそうでした。医学者としてのほかには、なんの野心もないお方ですから、私のような信者はアリガタ迷惑だったわけです」
 これは笑えない悲劇である。しかし赤城風雨先生の生涯が全部笑えない悲劇であった。悲痛でもあるし、滑稽でもある。肝臓先生――イヤ、それは信者の云うことで、町一般では、肝臓医者、これが赤城先生のアダ名だ。もって知るべし。
 友人Qがノミをふるって巨大な肝臓を創造し――胃腸と心臓をモデルにつくった肝臓のバケモノが創造中の創造でなくて何物だろう! これを街路の片隅へほッたらかして肝臓先生の高徳をケンショウしようというのは、一見、肝臓医者などゝ言いたてた全市の悪漢どもに復讐しようとの悪趣味が感じられるが、肝臓先生の一生を知るに至って、その然らざるユエンがわかるのである。まったくQはヤケを起したわけではない。胃腸と心臓を見て肝臓をつくったQは、そこに深い感慨と、芸術家の遭遇するコントンとして、又、わりきれた、ある天啓があったのかも知れない。私は今や、そう信ずるのである。
 諸君は伊東市の街路のいずこかに、Qのつくった巨大な肝臓を見ることができるはずだ。伊東市のどこ、どの街角ということをシテキすることはできない。それは名もない片隅だ。それでいゝのだ。そして又、街のいたるところであってもよい。そして、その肝臓の碑面には、ハズカシナガラ、小生の詩がきざまれていることを、小さな声で白状しておこう。詩作の情熱は高鳴っても、詩の体となすべき言句にウンチクがないから、ピカドンの徒は詩はダメです。
 しかり、しかして、肝臓先生とは何者であるか。それを語るべき光栄ある時間がせまってきたが、それは私が語るのではなく、烏賊虎さんが語るのだ。私はそれを私流儀の文章に要約しただけのことだ。以下、文中、私とあるのは烏賊虎さんである。

          ★

 赤城先生の生国がどこか、市役所の戸籍係にしらべてもらわないと、わからない。伊東の生れでないことだけは確かであるが、この町は旅の人にはなれているし、魚も年中旅をしているものだから、誰も人の生国などを気にかけないのである。
 先生は東京の医者の学校の物療科というところを出た人だ。これだけは、みんなが知っている。なぜなら、その物療科をつくった恩師の大先生を神のごとくに讃えて、万事につけて恩師の高徳に似たいというのが先生の念願だからである。恩師の大先生は大学教授のくせに博士号をもたなかった変り者であるから、先生も医学博士にはなることができない。町医者としては、ここはツライところであるが、恩師に似なければいけないから、仕方がない。
 汝は何者であるか、ときかれると、さしずめ、人々が肝臓医者さと答えてくれるところを、先生は、余は足の医者である、と答えるのである。町医者というものは、風ニモマケズ、雨ニモマケズ、常に歩いて疲れを知らぬ足そのものでなければならぬ。天城山の谷ふかく炭やく小屋に病む人があれば、ゲートルをまき、雲をわけて、走らねばならぬ。小島に血を吐く漁夫があれば、小舟にうちのり、万里の怒濤をモノともせず、ただひたすらに急がねばならぬ。それが町医者というものだ。
 町医者は私人としての生活をすくなからず犠牲にしなければならないものだ。急病人の知らせをきけば、深夜に枕を蹴ってとびだして行かねばならず、箸を投げすてて疾走して行かねばならぬ。病める者の身を思え。病める者を看る者の心を思え。足の医者として誠実に生きたいというのが先生の念願であり、この町の何人かの人々が、先生の存在によって心安きを得たという小さな事実をよろこびとして、つつましい一生を終れば足ると思っていたのである。
 そこへ起ったのが戦争だ。これが先生の運命をかえてしまった。
 それは昭和十二年の末ごろからの話であった。先生は妙なことに気がついた。診る患者のほとんど全部の肝臓が腫れているのだ。あまりのことに驚いて、脚気《かっけ》の患者でも、頭痛の患者でも、容赦なく胸をあけさせて肝臓をしらべると、例外なく肝臓を腫らしている。疑いもなく肝臓炎の症状だ。
 先生は文献をしらべてみたが、すべての人間は肝臓炎である、というようなことは、どこにも書いてある筈がない。先輩にきいてみると、それは伊東の風土病だろうという返事であった。
 しかし先生の診察を乞う者は伊東市民に限らない。ここは名高い温泉地だから、日本中から観光客があつまる。それらの人々も診察をもとめてくるが、しらべてみると、みんな肝臓を腫らしている。してみれば全国的な現象で、けっして一伊東市のみの風土病ではあり得ないのである。
 先生は、あまりのことに混乱した。一時は我が目を疑ったのである。
 それまでの先生は、特に呼吸器病の医者として自ら任じていた。呼吸器病の侵略たるや、日本に於ては風土病かの観を呈し、あたら有為の人材が業半ばに吐血して去り、まさに亡国病たるの惨状である。この病菌と闘い、伊豆の辺地、曾我物語発祥の地、久須美荘園の故地のみは、自らの必死の力闘によって、この病菌の息の根を絶たんものを! 先生はケナゲにも、かく念じ、かく闘っていたのだ。
 しかるに、なんぞや。
 先生はこう考えた。これはイカンぞ。ひょッとすると、悪魔がこの地に住みついたぞ。オレが呼吸器病のために必死に闘っているのを、からかっているのだ。
 イヤ、イヤ。悪魔などを考えてはならぬ。これは神の試錬であろう。先生は心をとり直して、こう考え直した。
 しかし、神は一介の町医者たる赤城風雨ごとき者に、何を試錬したもうのであろうか。自分は一介の足の医者として全うしたいと希うほかには何も望んではいないはずだ。名声も地位も富も望んではいない。病める者が貧しければ、風雨にめげず三年五年往診をつづけて、一文の料金を得たこともない。むしろ投薬の度に※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]卵や新鮮な果実や魚などをひそかに添えて平癒の早からんことのみを祈っていたはずであった。神はこれを偽善として憎みたもうのであろうか。
 一介の足の医者として全うしたいと志をたてた以上は、今さら研究室へ戻ったところで何になろう。そこ
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング