荒天のうねりの高く砕け狂う日も同じことで、平々凡々にでかけて行くだけのことである。大謀網《だいぼうあみ》をあげに行くのだ。
 同じころ、あるいは、もう一時間早く、近海へ漁にでる棒受け網が出陣する。
 烏賊虎さんは棒受け網の小頭で、漁期は連日朝の二時にでゝ、夜の十時に帰る。家でねむることはない。黙って家へ戻ってきて、手拭をとって銭湯へ行き、なんとなく四時間たって、だまって出かけるだけである。彼らが魚に同化する理がわかるであろう。遠洋へ漁にでると、一ヶ月、マグロなら二ヶ月の余も、海の上で暮すのである。せいぜい四十トンぐらいの船。たった四畳半ぐらいの一室で三十人ぐらいの人々が眠るのである。水のほかには自分たちの食物として米と塩を積むだけで精一パイだ。彼らはただガムシャラに魚を追う。ひねもす、魚を追う。それが彼らの一生だ。彼らの親も、その親も、その又親も、ズッとそうであった。そして彼らは、海水でといだ御飯が陸上の御飯のくらべものにならないほど美味であることを知り、釣りたての生きた魚には魚の臭気がなくて、かみしめる肉に甘さがこもり、人にたべてもろうための心尽しの数々がこもっていることを知って満足するのである。彼らは帝国ホテルのフランス料理にあこがれない。彼らの日常の食事が、それよりも豊富な妙味に溢れていることを発見し、確認しているからである。
 伊東市の、ちょうど温泉町と漁師町の境界をなしているのが大川で、一名、音無川ともいう。この川では鮎とウナギがとれ、通人の愛好するモクゾオ蟹がとれる。又、その海にそそぐところでは、三百目、四百目の黒ダイがザラに釣れる。
 漁師の子供たちは夏いっぱい川の魚やカニをとって遊ぶが、それを食べることがない。漁師町では、川の魚は子供のオモチャと解して、食用に供することがない。川の魚はイソくさいから、と彼らは云う。イソといえば、海という意に解するのが通常の日本語であるが、彼らの用法は特別で、川魚や黒ダイはイソくさいからと云って、全然ケイベツしているのである。
 潮吹のあたりの岩のある海岸では、私がたった三十分汀をぶらつくだけで、ウニを十も二十も拾うことができる。アワビもサザエもふんだんにいる。彼らはそれを土産物として温泉客に売るけれども、自分たちは食べることがない。彼らの味覚は特別なのである。良かれ悪しかれ、彼らほどガンメイ固陋な美食家はいないのだ。それは鯨が常にイワシだけ追っかけ、甚平ザメがマグロを専門に食うのと同じようなものだ。一言にして云えば、彼らは、どこまでも、利巧で、温和で、心の正しい魚にほかならないのである。
 漁師町のこの性格を知ることは、これから私が語る話に深い関係があるのである。彼らは心が正しいから、心のよこしまな人とつきあうことができる。どんな善良な人とでも、どんな邪悪な人とでも、つきあうことができるのである。
 まったく伊東市は不思議な町だ。温泉町と漁師町と、まったく性格のアベコベのものが一しょになって、とにかく調和しているのである。温泉町では名士だの富豪だのと俗世の評価を後生大事に大さわぎをするが、漁師町では人間族があるだけのことだ。温泉町では戦災で日本中に家と部屋が不足しているところから、五ツ間ぐらいの家が二百万円だったり、二間の貸部屋が、七千円、一万円などゝ吹っかけられたりするが、烏賊虎さんの二階や離れには、どこの何兵衛だかハッキリしない他国の人が全然タダで部屋をかりているのである。部屋があいているから、タダで貸してやる。無い部屋をムリして貸してやるわけではないからタダだというだけのことで、烏賊虎さんのオカミサンの手がすいている時は部屋の掃除もしてやるし、寝床をしいてやったり、たたんでやったりもしてくれる。ただし、手がすいている時だけ。全然ムダがないだけのことだ。
 こんなことを書くと、漁師町のちょッとした善良さを言いはるために、私が途方もない誇張を弄して、架空の善人をデッチあげているように思われるかも知れない。まったく私の友人たちも、烏賊虎さんが風来坊にタダで部屋を貸している話をきいて、それはよッぽど超特別の阿呆だろうと考え、広い世間にそんな人間が一人ぐらいは居ることもあるだろうと渋々承認する程度なのである。漁師町の全部が烏賊虎さんとまったく同じ気分であると云っても信用してくれないのである。しかし私は世間のくだらぬ常識には、こだわらぬことにしよう。
 漁師町では俗世の名士や富豪は問題としないけれども、単純に人間族だけで構成されて、特例がないかと云えば、そうでもない。
 この漁師町の方言では、偉い、ということを、ヅネエ、という。烏賊虎さんはヅネエなア、というように用いる。どういう人がヅネエかというと、それは、まったく魚に関したことで、天下の政治や巨億の富のあずかり知るところではない。
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