向だね」
 と、ひやかしてやったが、彼はムッとして、とりあわない。
「これは何物の石像です?」
「カンゾオ!」
「カンゾオ?」
「しかり!」
「ケスク・スラ・シニヒ?」(それは何を意味するや)
「スラ・シニヒ・モツ!」(それはモツを意味する)
「モツ?」
「モツ! セタジール(スナワチ)レバー!」
「アッ。ヤキトリ! 肝臓!」
「セッサ!」(しかり!)
 シュルレアリズムのウンチクも及ばないのは仕方がない。探偵小説を書いたこともあるが、解剖を見学したこともなく、ハズカシナガラ、肝臓の形を知らない。しかし、直径一間もある石の肝臓をつくる男はキチガイだ。
「肝臓はこんな形をしているもんかね」
「アイ・ドント・ノオ!」
「アレレ。コレ、肝臓デワ、アリマセンカ」
「余は胃や腸や心臓を見て、これを造った。余の見た書物に肝臓の絵がなかったのである」
「フウム。ききしにまさる天才であるよ。ヤキトリ屋の置物かな。看板にしては入口をふさいでしまうし、庭の石かな。しかし、ヤキトリ屋というものは小ヂンマリとしたもので、なんしろ目の前で焼いて食わせる店だから、庭はないはずだがな」
「シッ!」
 彼は私を制した。まさしく彼はキチガイである。端坐して、と云いたいところだが、椅子にかけているから、キチンと両膝をそろえて、シンミリ私を見つめたと思うと、うつむいて、ポタリと一としずく。驚いたの、なんの。
「わが友よ」
 彼は涙をふりはらって、おごそかに石の肝臓を指した。
「これなる肝臓はわが畏友、わが師、医学士赤城風雨先生の記念碑である。われら同志よりつどい、先生の高徳をケンショウしてそぞろ歩きの人々に楚々たる微風を薫ぜんため、これを目立たぬ街角へ放置せんとするものである。汝が詩を書かねばならぬのは、この肝臓の碑面であるよ」
 私は涙腺がシッカリしているから、とてもキチガイにウマを合わせることができない。
「詩なんてものは、時間の意識が長々とした時世に存在したものなんだな。ボクなんかは、ピカドンというような微塵劫《みじんこう》的現実に密着しているから、そぞろ歩きに微風を薫じるような芸当はとてもできない」
「まア、いいさ。今に、わかる」
 彼は又、咒文《じゅもん》をとなえた。
「君がいくらデカダンぶっても、赤城風雨先生の苦難と栄光にみちた一生をきいて、センチにならないはずはないさ。今に、君の涙腺もネジがゆるむから」
 彼はせせら笑って、
「これから君を烏賊虎《いかとら》さんのお宅へ案内するが、烏賊虎さんは君をもてなすために酒肴の用意をととのえて待っておられる。伊東市は温泉町ではあるが、半分は漁師町だ。烏賊虎さんは南海の名もない漁師だが、最も深く赤城風雨先生の高徳をしたう点に於て、第一級の人間なんだね。戦争中は赤城先生の病院で人手が足りなくて、手伝いに行って、ズッと臨終の瞬間も見とゞけた最も親しい人だ。三四日君を泊めてくれる筈だから、新鮮な魚をウントコサ食べさせてもらって、赤城風雨先生の話をきくがいいや。君の考えはガラリと変るぜ」
「拙者は烏賊虎さんのところへ泊まるのかね」
「あたりまえさ。君の曲った根性をたたきなおすには、そこへ泊めてもらうに限る」
 こんなわけで、私は魚市場から段丘を登ったところにある烏賊虎さんの二階に五日間泊めてもらった。私は、できるなら、五年間でも泊りたいと思ったほどである。
 漁師というものは、実にあたたかくて、親切なものだ。オ早ヨオ、だの、コンバンワ、などゝ月並な挨拶は全然やらない。ほかに気の利いた代用品を用いているわけではない。つまり、ゼンゼン喋らないのである。どんな親しい間柄でも、黙って往来をすれちがう。頭も下げない。彼らは魚に同化して、ムダなことは喋らなくなっているらしい。魚が挨拶したら、おかしなものだ。鯛のような人もいるし、ヒラメのようなジイサンもいる。アンコーにそっくりのオッサンもいるし、イワシのような娘もいる。ヒラメ族というものが、すべて一律にただヒラメであって、太郎ヒラメでも花子ヒラメでもないように、彼らにとって、人間族は一律にただ人間であって、その絶対の信頼感と同族感が漁師町に溢れているのである。
 そして漁師は魚よりも、かしこくて、おだやかである。私は伊東市の半分、温泉町ではよその土地からまぎれこんだ地廻りたちがケンカするのを見たが、あとの半分の漁師町では永久にケンカがないことを知った。若い漁師のたくましい筋骨はあげて風浪との闘いに捧げられ、同族に向って手をあげるなぞは思いもよらないことなのだ。平和な、そして、あたたかい町。
 朝の三時には、もうホラガイが暗い海面をなりわたる。百人あまりの若い人たちが各々の家からとびだしてくる。彼らをのせた十ほどの小舟が親船にひかれて、走り去る。なんの怒号もなければ、劇的な動作もない。
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