、はじめから劇的奇怪性突飛性をはらみ、煩悶、混乱、先生をして右往左往せしめてきた。ために先生は骨をけずり肉をそぎ、したたる汗に血涙のにじむ月日を重ねたのである。しかも尚、力足らず、患者は激増し、流行性肝臓炎は日本全土を侵略しつつある。慟哭したい悲しさだ。
しかし、この日、鳴りやまぬ拍手大カッサイを耳朶《じだ》にのこして、静坐冥想した先生は、深く心に期するところがあった。これぞ神の告げたもうシルシであろう。慟哭をすてよ。狐疑をすてよ。逡巡をすてよ。汝の力足らざることを嘆くな。肝臓医者とよばれることこそ光栄である。余生をあげ、血涙をしぼり、骨をけずり肉をそぎ、汝の息の限り、肝臓炎と闘え!
闘え! 闘え! 流行性肝臓炎と!
闘え! 闘え!
闘え!
★
ある日、先生が好古堂という骨董屋で、万暦《ばんれき》物のニセモノの小茶碗を手にとりあげて眺めていると、道の左右から自転車にのった男が走ってきて、店の前でカチ合って車を降りて立話をはじめた。
「お宅の娘さんが病気だって話じゃないか。よくなったかい?」
「それが、どうも、はかばかしくいかないのでね」
「そいつア、よくねえな」
「それで、まア、これからお医者へ相談に行こうと思ってるんだ」
「フン、フン。何先生に?」
「ウチじゃア、いつも、赤城先生だ」
「なんのこった。あの先生じゃア、肝臓病と云われるにきまってらアな」
と、男は面白くもなさそうに言いすてると、自転車にのって、お大事に、と走り去ってしまった。先生はガラス戸越しに、それをきいてしまったのである。
又、ある日、先生が医師会の事務所に立ちよると、二階できき覚えのある二ツの声が話を交しているのがきこえる。二人とも、この町の開業医である。
「この町にも、フランスの医者が現れたな」
「なんのことだね。それは」
「アッハッハ。フランスの医者は、胃腸が悪いことを肝臓が悪いというのが常識になっているのさ」
「フム。ボクのところへ新患が現れてだね。ちかごろはカゼのことを肝臓病と云うようになったんですか、ときくんだね。それで、まア、フム、赤城氏性肝臓炎というのができたらしい。カゼばかりでなく、ロクマクでも子宮病でも、みんな肝臓炎だ。感染しないように気をつけたまえ、とね。アッハッハ」
先生はムッとしたが、心をとり直した。言いたい者には、言わしめよ。人に対して怒ってはならない。ただ汝の信ずるところを正しく行えば足りるのである。
先生は二人の医者に気まずい思いをさせては気の毒なので、ソッと跫音《あしおと》を殺して、姿を消した。
しかし、あらゆる患者がみんな肝臓を犯されていることは、先生の診察室では動かしがたい事実となっていた。東京の友人や先輩から、先生に宛てた紹介状をもたせて患者を送ってくることがあった。それは、ほかの病気の患者であったが、しらべてみると、例外なく肝臓炎もあるのである。この事実は先生を困惑させ、思わず、こまった、こまった、と心に叫ばしめるのであった。
そこで先生は仕方なく、
「肝臓も悪いですね」
と何気なく言おうとしても、どうしても「も」にこだわって、妙に力がこもってしまうのだった。それからの先生は、患者を診るたびに「も」の一語と闘い、自責の苦痛と闘わねばならなかった。すべての患者が肝臓炎でもあること、この動かしがたい事実に、なぜ気おくれするのであろうか。先生はフガイなきことにも懊悩した。
その時に当って、先生に大きな勇気を与えてくれる出来事が起ったのである。
昭和十五年、十二月二十日であった。例年のこの日は、恩師の大先生の謝恩会が門下生によって催される日であった。先生のすむ伊東は、汽車も通らぬヘンピなところで、この地へ開業以来、十二年間も謝恩会には御無沙汰していたが、どうやら汽車も開通するようになったので、でかけたのである。
盛大な謝恩会だ。恩師の大先生をかこんで三百名の門下生があつまっている。天下に知名の学者から医局の若い学者まで、一門の精鋭をすぐった晴れの席、一門の威風は堂々と場にみち、東海の辺地に足の医者をもって自ら任じる先生は、うれしいやら、心細いやら、同門の威風にすくむ思いであった。
会がはじまると、指名をうけた人々の挨拶があったが、絶えて久しい出席のために、先生も指名をうけて、挨拶しなければならなかった。
「頼朝が流され日蓮が流された離れ小島のようなこの町にも、戦争以来、温泉療養所ができまして、あたかも当物療科の延長の感があり、そこの諸先生方と親しくしていただきまして、まるで医局にいるような気分にひたり、心からうれしい日夜をすごさせていただいております。孤島のようなところに開業しておりましたので、謝恩会にもいつも欠席しておりましたが、温泉療養所の先生方のおかげで医局のなつ
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