やあ君の意見を受売りしてたんだね。実は昨日蕗子からそつくり君と同じことを言はれたのだが」
「冗談ぢやないよ!」
 と紅庵は飛びあがるほど吃驚して、大袈裟な身振りまで起しながら猛烈に否定した。
「こんなことを言ふのは君だからのことなんだ。いや、もう先から君に内々不満を感じてゐたのだが、どうも君は僕を誤解してゐるよ。君はこのたび如何にも僕が裏へ廻つて何かと策謀してゐるやうにとつてるらしいが、それは甚だ迷惑な誤解だよ。今日のことだつて蕗子さんに訊いてもらへば分ることだが、君だからこそ心やすだてに斯ういふ進言もするわけで、いくらなんだつて君に話しもしないうちに斯んな入れ知恵を秘密つぽく吹き込むものか。いや、これで君の気持がよく分つたよ。どうも先から変な誤解をしてるんぢやないかと疑つてゐたのだ」
「さう大袈裟にとりたまふな……」
 と、こんどは伊東伴作の方で紅庵の大袈裟な気勢に少々驚きながら、おさへて言つた。
「僕がさつき君の言葉をきいて面喰つたのは、君が蕗子に入れ知恵をしたといふ事柄に就てではなく、昨日の蕗子の意見がどうやら蕗子自身の頭から出たものではないらしいといふ理由からだよ。なにしろ昨日は蕗子からその話を切りだされた時は、この女でも時にはこれくらゐの考へごとをめぐらしてゐるのかと思つて確かに吃驚したのだからね。だいたい君はひどく大袈裟に騒ぐやうだが、たかがこれくらゐの入れ知恵を、よしんば実際吹きこんだにしたところで、別段誰を陥れるといふ事柄ではなし、却つて逆に僕達の利益になることを言つてくれたわけだから、君がこれくらゐのことに拘泥《こだわ》つて大袈裟に騒ぎだした理由といふものが、却つて僕には呑みこめないやうなものだよ」
 然し紅庵は却々これだけで納得しさうな見幕ではなく、改めて伴作の誤解といふことに就て執拗にくど/\と詰るやら言訳けやら詠歎やら手を代え品を代えの目まぐるしい変化で述べはじめたが、そのことはとにかくとして、その日紅庵も帰つたあとで折をみて蕗子にききただしてみると、紅庵の莫迦々々しいほど大袈裟な見幕だけでも今度に限つてさういふ策謀のないことはほぼ見当がついてゐたが、果して蕗子もさういふことは確かになかつたと答へた。けれども蕗子は暫く何やら思ひださうとするやうな様子のあとで、斯う言ひだした。
「だけど、さうね、雨宮さんはそのことを昔はしよつちう言つてゐたわ」
「昔つて、いつのことだ?」
「半年も、一年くらゐも昔のことよ。結婚なんて窮屈だから、なるべくそんな束縛を受けないやうな生き方が賢明だつて言ふのよ。つまりバーなり喫茶店なり開かせてもらつて、面白おかしく暮すやうな工夫をする方がいいつて言ふの。その話はよくきかされたわ」
「なるほど」伊東伴作は心の底で、やつぱりさうだと思はず大声で叫んだのだつた。
 昨日今日紅庵にそそのかされた事柄ではないにしても、底の底まで探つてみると、女の行動や考へ方の隅々まで紅庵の執拗な感化が行きわたつてゐるやうな気がした。執拗な感化があくどく行きわたつてゐるだけに、蕗子はなんとなく紅庵に反撥を感じ、紅庵の知らない所へ引越したいやうな考へを起したりするが、要するにその反撥の裏を辿れば、家出してからの蕗子の考へや行ひの一つ一つが紅庵の影響のもとにあり、蕗子そのものの本体まで紅庵の生臭い臭気から抜けでることができずにゐるのではあるまいかと伊東伴作は考へたのだ。蕗子がさういふ頼りない状態にあり、全く無意識に紅庵の思想の傀儡となつて動くものとしてみると、紅庵のことだからろく[#「ろく」に傍点]なことを吹きこんだ筈がなく、バーでも開いて男を探し、男から男へといふ風に面白おかしく、とでも毎日喋つてゐたのだらうが、それをそつくり実践されては堪らないと伊東伴作は怖れをなして考へた。然しいくら蕗子だつてまさかにそこまでは踊るまいとせいぜい気休めを弄んでゐると、蕗子への愛着はもはや牢固として抜くべからざる妄執に変りはじめてゐたのだつた。



底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房
   1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「早稲田文学 第三巻第五号」
   1936(昭和11)年5月1日発行
初出:「早稲田文学 第三巻第五号」
   1936(昭和11)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:今井忠夫
2005年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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