のハズに向つて話すことがいつも決まつて人間は面白おかしく暮さなければ損だといふことなの。つまり貞操だの一夫一婦だのつてことに拘泥せずに、もつと気楽に快楽を追ひ、したい放題に耽らなければ生きてゐる値打がないつていふ理論なの。勿論私にだけ言ふわけぢやあなく、ハズに向つて言ふ時の方が却つて多いし、とつても熱心に力説するのよ。それがいつものことだつたわ。聞きてが私一人のときは、話すことが一層微細で通俗的で具体的よ。つまりどこの誰それはどういふ浮気をしてゐるとか、どこの誰それは夫婦合意の上で浮気を許し合つてゐるとか、そのためにその人達の身辺が爽やかで、遊びに行つてみると如何にもこつちまで気持がのび/\するやうだ、なんて話すのよ。普通の夫婦でもなんだから、まして無能者を良人《おつと》にもつ女は当然浮気の権利があるんだつて、そんなことまでハッキリ言つたわ。とても真面目に、厳粛な顔付でハッキリ言ふのよ。聖人のやうに厳粛で、私を口説くやうな素振りなんか微塵もないし、あの人自身が浮気さうな感じなんかどう考へてもないやうだから、あの人の言葉が怖いくらゐ真理にきこえてくるのよ。本気に私を憫んで、さういふ聖人のやうな憫みかたで私の人生に忠告を与へてくれるやうに思はれたわ。雨宮さんが帰つてしまふと奇妙な人だわと思ふくらゐで、あの人の言葉なんか滅多に思ひ出しもしなかつたけど、知らないうちに、私もだん/\その気になつてゐたんだわね。貴方に始めて会つたでせう。あの日ハズと相当深刻な喧嘩をして、今日こそ別れてしまはうかと考へたりしてゐるところへ雨宮さんがやつてきたの。私が喧嘩の話をして別れようかと思つたほどよと何の気なしに言つてしまふと、あの人ひどく真剣な顔付になつて、そんならすぐにも家を出なさい、一緒にでませう、愉しく暮すことのできるやうな男の友達も紹介してあげるし、なんとかして生活も困らないやうにしてあげる、然し自分自身にはその資力もなし野心もないからつて言ふんだけど、あの人の態度はその時がいつよりもいつと真剣で厳粛で大きな憫れみが籠つてゐるやうで、あの人自身の野心なんか一つだつて見当らない様子だから、ほんとに頼りになると思つたのよ。まるで魔術にかけられたやうにふら/\家を出ちやつたの。でも貴方のおうちへ始めて伺つて、この人は女優になりたいさうだけど、なんて言ひだされた時には吃驚したわ、どうせ貴方が拒絶することを見抜いておいて、恰好だけでもつけておくために言つたことかも知れないけど、私の方ぢやそんなことをあの人に言つた覚えもなし日頃考へた記憶さへないほどなんだもの、ほんとに吃驚しちやつたわ」
「それぢや君のハズつて人は、西沢といふ詩を書く人ぢやないのか?」
「ええ、さう。知つてるの?」
「フウム」と伊東伴作は思はず心の中に唸つた。
「君のハズの話は、それから君の話も、かれこれ一年ぐらゐ前から度々紅庵にきかされてゐたよ。つまり亭主が無能者で、女房の方は勿体ないほど綺麗なんだが、肉体のほんとの快楽を経験しないせいか無意識には相当ヂリ/\した不満を感じながら、それが性的な原因から来てゐることにさへ気付かないやうだと言ふんだね。あのままにしておくのは勿体ないから大胆に本能的な生活をするやうにと勧めてゐるが、といふやうなことを言つてゐたが、それぢやなんだね、紅庵はもうその頃から君の家へ繁々通つてほんとに浮気を奨励してゐたわけか。さういへばあの当時も、どうだい二号にするつもりなら世話をするがといふやうなことを、これは冗談半分だつたが、きいたやうにも覚えてゐる……」
 伊東伴作の脳裡には、今まで無意識のうちに気付いてはゐたが別段それを明瞭な形にまとめあげる機縁もなく必要もなかつた雨宮紅庵の裏面の姿が、一気に歴々と浮きでたやうな思ひがした。伊東伴作の記憶を辿れば、雨宮紅庵が蕗子に関心を持ちだしたのは一年以上も昔のことにさかのぼる。実際はそれ以上の、恐らく紅庵が始めて蕗子を見た時間から彼の秘密の姦淫は育ちはじめたと見ることもできよう。あの頃のことを思ひだすと、紅庵は蕗子のことを語るたびに、蕗子が自分に気のあるやうな、殆んど蕗子に口説かれかねない形勢にでもあるやうなひどく思はせぶりな話し方をするかと思ふと、蕗子の正体が白痴のやうに単純で余りにナイーヴであるために、内にあふるるやうな肉感を蔵してゐてもなんとも可憐でたうてい手なぞはつけられないのだと妙に泌々《しみじみ》言ひだしたり、そんなことを言つてるうちに自分の感傷にひきづられた形で、今迄の凡そ官能的な話とは逆に今度はひどく精神的なことばかりを殆んど支離滅裂に言ひ強めたりするのだつた。けれどもたとへば蕗子に一本の煙草を渡された時の、その真つ白な、腐肉のやうな光沢をたたへた、柔軟な鞭のやうな一本の腕について語りだすところの精密な描写なぞを思ひだせば、最も飢えた一人の男がその飽くことを知らない食慾を通して一皿の妖しく焙られた豊肉を眺めるやうな、余りにも痛々しすぎるほど焼けただれた官能の悲鳴をでも聞くやうな思ひがして、寧ろ甚だ陰惨なるものを感じ、面を背けずにゐられぬやうな苦しさを味ふ心持をするのだつた。もとより惚れるといふほどの真剣な気持ではなかつたにしても、親しい女友達の尠い雨宮紅庵にしてみれば、秘かに情炎の絵巻物をくりひろげる時の最も実感ある対象は日頃親しい蕗子のほかになかつたわけで、さういふ意味では彼の最愛の情婦だつたに相違なかつた。
 最愛の心の女を人の二号に世話をする、一見甚だ奇妙のやうに思はれて、さういふことは有り得ぬやうに思はれるから、蕗子を伊東伴作のもとへ連れこんできた紅庵の気持は仕事の世話でもしてもらひ、あはよくば純粋に生活の保証だけをしてもらふといふぐらゐのところで、二号の世話を焼く意志なぞは微塵もなかつたことのやうに考へられるが、然しつら/\考へてみると然う単純に言ひきれぬものがあるのだつた。そも/\紅庵が伊東伴作をつかまへて、蕗子を二号にしたらどうかと言ひだしたのは今度が始めてのことではなく、伴作のもはや半ば失はれた記憶の奥を辿つてみると、勿論極めて無責任なその場限りの冗談としての話であつたが、かれこれ一年近く前からさういふ言葉が少くとも二度三度は紅庵の口から洩れてゐるやうである。もとよりこのくらゐの冗談は誰の口にもありうることでそれ自体としては奇も変もないが、冗談から駒がでたといふものか、これが現在はほんとの話になつてゐる事態の底を綿密に探つてみれば、雨宮紅庵自身すら気付かぬところの一つの強力な潜在意志が彼の秘密の情慾に沿うて流れ、この冗談の底に作用《はたら》いてゐたと思はれぬ節もないではない。つまり雨宮紅庵のある隠された心の奥では、自分のこのたびの恋情が如何様《いかよう》に熾烈の度を加へるにしても、自分と女との交渉がこれまでのところ恰《あたか》も裃《かみしも》をつけた道学者の如く四角張つた身構えにあり、窮屈な仮装を強ひられて身動きもならぬ状態にある限りに於て到底この上の展開に見込みがなく、又自分の引込思案な性情としては到底自らこの仮装をかなぐりすてる底の一大勇猛心をふるひおこす天来の奇蹟も望みが薄いとなつてみると、自分の恋を自分の恋の形に於て成立せしめる見込みは先づ有るまいと言はなければならないから、そこで蕗子を他人の手で堕落せしめるといふ手段によつて秘かに医《いや》されぬ自らの情慾を慰めようといふ斯様に変態的なカラクリがひそかに作用いてゐたのではあるまいか? かうまで整然たる筋を具へた心のカラクリではないにしても、もつと曖昧模糊たる異体《えたい》の知れぬ混沌状態に於てなりと、とにかく蕗子を他人の手をかりてまでも堕落せしめ、情痴の坩堝の中へ落し、かうして炎上する芳醇な又みだらな気配を飽かず眺めることによつて、自らの医し難い情慾をひそかに慰めようといふ、さういふ変態的なカラクリが潜在したであらうことは必ずしも言へないことではないやうだつた。或ひは又、無能者を良人に持つ美貌の一女性が医されぬ性慾に身悶えして道ならぬ恋に走るといふ、必ずしも蕗子に限つたことではなく、従而《したがつて》紅庵自身に直接何等の関係はなくとも、単にさういふ事柄のもつ何やら息づまるやうなあくどい情慾の雰囲気だけが已にして彼に好ましかつたのかも知れない。所詮雨宮紅庵は何時に限らず自身の恋を自身のものとして完成することはできさうもない男であつて、他人の恋を垣間見てもそれが忽ち己れの秘密の情痴の世界に展開してくるといふやうな円融|無碍《むげ》の神通力を心得ており、同様に自分の恋情を他人の情事の姿に於てもとにかく不充分ながら満しうるといふやうな、他人の色事を垣間見て無上の法悦を覚える底の摩訶不思議の性能を具へてゐるのかも知れなかつた。
 それにしても頼りないのは蕗子その人の気質であり心事であつた。はつきりした自分のものといふ信念なり考へなりがあるのやらないのやら、どうにも確《しつか》りした心棒といふものが皆目見当らない感じで、甚だ頼りないのだつた。けれども然ういふ心許ない女の姿が、その人に執着を持ちはじめた男にとつて却つて可憐な風情を添え、並ならぬ魅力を発揮することもあるやうに、伊東伴作の仇心もやや執着に変りはじめてゐたのだつた。
 蕗子の甚だ頼りない有様といへば、たとへばその日改まつて斯ういふことを切りだしたのである。
「自分で独立できるやうな商売を始めさせて下さらない? どんな商売でもいいわ」
 蕗子の顔は真剣だつた。
「いつまでこんな風ぢや心細いわ。自分で自分の生活だけはやつてけるやうにしておきたいの。洋裁でも美容術でも写真でもタイプライタアでもなんでもいいわ。一年くらゐで独立できるやうになるわね。私だつてその気で勉強すれば一人前のことは覚えられると思ふわ。おでん屋とか喫茶店だつていいのよ。とにかく自分の生活費ぐらゐ自分でなんとかしたいのよ」
 伊東伴作は吃驚した。この女でも自分の力で生きたいやうな能動的な生活慾があるのかと思つた。あたりまへの奥方とか二号といふものに納まつて至極ぼんやりと暮すだけで、ほかに慾も根気もないのだと思つてゐたのだ。
「君でもそんな激しい生き方がしてみたいのか?」と伊東伴作がやや驚いて蕗子の顔を見直すと、
「あたしだつて――」
 と蕗子が紅潮した顔をあげて、その言葉を掴みだすやうな激しいものを感じさせながら、
「命もいらないやうな激しい恋愛がしてみたいと思ふわ」
 と答へたので、伊東伴作は益々もつて面喰はずにゐられなかつた。そろ/\自分の国を出外れて、よその国へ踏み迷つてきたやうな勝手の違つた感じさへしはじめたが、面喰つて戸惑ふよりも、どうやら陶然とするやうな何やら一脈爽快味のある異国情趣に打たれたことも否めなかつた。
 ところがその翌日、伊東伴作が蕗子の宿を訪れようと思つてゐるところへ、雨宮紅庵が外面だけは相当逞しい遠慮気分を漂はせながらやつてきた。つまり今後は案内知つた隠宅とはいへ主人伴作の許しを受けない限り滅多に一人で訪れはしないぞといふやうな、鹿爪らしい遠慮気分を生臭いぐらゐプン/\発散させながらぬッと現れてきたのだつた。そこで二人は無論相談するまでもなくやがて連れ立つて蕗子の宿へ歩きはじめたが、歩きはじめたと思ふと紅庵が重大な進言でもする内閣書記官長といつた勿体ぶつた顔付をして妙なことを言ひだした。
「どうだね、二号をただ遊ばせておくといふ不経済な手はないが、商売でも始めさせたら。洋裁とか美容術といふこともあるが、これは店を開くまでに相当修業の時間がかかるだらうしね。喫茶店とかバーといふものはどうだらう? 儲からないまでも損といふことはないものだよ。巧く行けば結構君が遊んで食つて行けるくらゐの繁昌だつて、あながち望めないことではないね。蕗子さんほどの美人なら、あの人ひとりでも相当の客がつくと思ふが……」
 これをきくと、伊東伴作は驚くよりもやや呆れかへつた形で、
「なるほど、それで読めた!」と思はず叫んだほどだつた。
「どうも蕗子の頭からああいふ考へがでてくるのはおかしいと思つたが、それぢ
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