との肉体の交渉なぞは毛頭想像の余地がないばかりか、潜在的な姦淫の焔がちらちらと洩れ、それが却つて彼の姿を悲しいものに思はせるのであつた。けれども紅庵自身の方はさういふ風に寛いで、気楽に陽気に喋つてゐるのがひどく愉しい様子だつた。夜がくるまで全く落付いて喋つてゐたが、夕食が終ると又もや半ばうろたえながら帰つていつた。
同じやうな日が四五日続いたのちの一日、紅庵が同じやうなうろたえ気味で帰つてしまつた後になつて、蕗子は伊東伴作に言つた。
「引越さして下さらない? ここは気兼ねがあつて厭だわ」
「家が一軒欲しいのか?」
「いいえ、一部屋でいいの。ここでさへなければどんな汚い部屋でもいいわ」
伊東伴作は考へた。一人の女に執着を持ちはじめた男の鋭敏な感覚によつて、引越しの提案がなんらかの点に於て彼に甘へる意味を持ち、同時になんらかの点に於て雨宮紅庵につながる意味があると思つた。紅庵に対して幽かながらも日増しに冷淡の度を加へるらしい蕗子の気配を、その日までにそれとなく気付いてゐたのだ。なんとなく甘へるやうな蕗子の様子から判断して、雨宮紅庵のことはとにかく、引越の理由に就てもつと刳《えぐ》られることを待ち構えてゐるのではないかと伴作は思つた。
「この部屋は、部屋としては却々《なかなか》居心持がいいぢやないか」と白々しく言つてみると、
「ええ、でも、雨宮さんの知らないところへ越したいと思つてるの」
と、果して蕗子はさう答へた。
「それはどういふわけだい? 雨宮が君を口説きでもしたのかい?」
「いいえ、そんなこと有り得ないわ。あの人はそんな気の利いたことのできない人よ。悪い人ぢやないんだけど、毎日だとうるさいもの。貴方と私の生活が今日から始まることにして、それ以前のことには尠しもふれない生活がしたいの。昔があると、しつこくつていやだわ」
――どういふ昔なんだい? と訊きたくなつた心持を伊東伴作は簡単にそらした。昔なんか問題ぢやない、これは浮気だ、たとひこれが自分の人生の重大事であり詮じつめれば中心をなす生活にしても、これは矢張り浮気で遊びで悪戯だ。女の昔の生活のことまで気に病むやうな心構えにとらはれてゐると、せつかくの悦楽が苦労の種に変るやうな莫迦をみる、それもみんな心構え一つのことで野暮な深入りはしないことだと考へた。
心当りのアパアトへ行つてきいてみると、探す苦労もなく
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