忽ち部屋がみつかつたので、雨宮の知らないうちに其処へ移つた。雨宮が面喰つて訪ねてきたら、実は昔のない生活を始めたいといふ女の希望であり自分の考へもさうだから、暫く蕗子の生活から遠距《とおざ》かつてくれるやうにと正直に打開けて話すつもりであつた。ところが秘密の引越しが、雨宮紅庵の内攻に疲れた尖鋭な神経に応へたものか、それつきり音沙汰がなく、却つて伊東伴作の方で気に病みだして、定めし一人で悒鬱《ゆううつ》がつてゐることだらうが訪ねて来ればいいものをと待ち構えてゐても、全く姿を見せなかつた。くさつてゐるに違ひなかつた。
ところが二週間とたたないうちに、今度は逆な出来事が起きた。伊東伴作の知らないうちに蕗子がほかへ引越してしまつた。さうして行き先が分らなかつた。
★
アパアトの管理人の話をきくと、引越しには一人の男が手伝ひに来て何くれと世話をしてゐたと言ふのだつた。男の眼付がひどく窪んだ感じであつて頬骨がひどく目立つ顔付だつたといふ話や、絣《かすり》の着物で帽子を阿弥陀に被つてゐたといふ話から考へてみると、そつくり雨宮紅庵に当てはまる人柄としか思はれなかつた。そこへ別な手掛りがあつた。ちやうど引越しの前日あたり、伊東伴作が蕗子の宿へ出掛ける時間に、雨宮紅庵に紛れのない人物がその道順の途中に当る露路の奥にうろ/\するのを認めたといふ、店の者の語る噂を偶然小耳にはさんだのだ。
伊東伴作は腹が立つた。騙されてもいいと思つてゐたが、たいした騙しやうのできる紅庵でないと見くびつてゐたところから、さういふ悟つた考へ方も湧いたのである。それにあれからの毎日が騙されるやうな様子ではなかつた。蕗子の下宿で寛ろいでゐた紅庵の姿を思ひだしても、あれはあれだけの愉しみに酔つてゐたとしか思はれない姿で、それ以上に計劃的なあくどい気配を感じだすことはできなかつた。紅庵の訪問を嫌つて引越しをせがんだ蕗子の様子もそれだけのもので、ほかの企らみがあるやうに思へなかつたし、引越してからの毎日は新妻のやうに新鮮で、親愛の情は言ふまでもなく落付きのある明るさが目立つて表はれてきた様子からみても、あの生活に蕗子の心が籠つてきた証拠はあつても人を騙す暗い蔭は認める由がないやうだつた。わけの分らないことなので無暗に腹が立つばかりだが、腹が立つと益々みんな分らなくなつてきた。アパアトへ越して
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