、音楽、何を語らしてもとにかく相当の見識はあるのであつて、手相指紋骨相なぞにも玄人めいた蘊蓄があるかと思へば天文地質生物学なぞといふものに凝つてみたり、今時には珍らしく漢詩に精通してゐると思ふと二ヶ国ぐらゐの横文字も読めるといふ風に、とにかくその趣味は多方面にわたり、かつその全生活が趣味以上にでなかつた。趣味以上にでるためには必然その道に殉ずる底《てい》の馬鹿も演じとかくの批判も受けなければならないのが阿呆らしくもあり怖ろしくもある様子にみえた。人の弱身に親身の思ひやりがあり且甚だ誠実であるといふので、窮迫の時も友達に厭やがられず愛されたものだが、その誠実や思ひやりの由来するところは、要するに人の慾念の醜さを充分に知悉し自身もその慾念に絶えず悩まされてはゐるが、さうして慾念を露出しそれに溺れる人生こそ生き甲斐のあるものではないかと考へてみるが、自身は世間に当然許された破戒さへ為《し》でかす勇気がないといふ、自意識過剰の逃避性からきてゐるやうにも思はれた。
「ダンス?」伊東伴作は鸚鵡返しに怪訝さうな面持をして呟いた。
 伊東伴作はダンスホールに縁遠い人柄で、酔つ払ひでもしなかつたら冗談口一つ言へないやうな男だつた、さうして然《そ》ういふ多彩にして溌剌たる世界には多分に没交渉な生活を営んでゐるが、それを充分知つてゐる筈の雨宮紅庵が、臆する気配も見せず斯《こ》ういふことを切りだしたので吃驚《びつくり》した。
「いや、たつてといふわけぢやないんだ」と、紅庵は再び表面《うわべ》だけもぢ/\とためらふ気振《けぶり》をみせたが、
「別の部屋で、ちよつと君に話したいことがあるんだけど……」
 と言つた。そこで二人は別室へ這入つた。
「あの人は君の恋人か?」と、別室で二人になると伊東伴作はまづ訊ねた。
「いや、さういふものではない」と、わざと周章《あわ》てたやうな吃り方で紅庵が答へた。
 ただかねて知りあひの女であるといふだけで、恋愛の交渉は微塵もなく、また、心底ひそかに燃やしてゐるといふ気持さへないのだと雨宮紅俺は同じことを繰返し繰返しくど/\と述べた。まるで故意に言はでもの言訳をするやうなくどさにも見えた。くどさを愉しむやうな秘密臭い厭味も感じられた。そのくせ、ただかねて知りあひの女であるといふ他には、どういふ筋の知りあひで、どこの誰といふことさへハッキリ言はうとしなかつた。つま
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