んでいたのである。彼はトルコ帽をかぶって歩いていた。私が子供たちをつれて自然林へ図画を書かせに歩いていたとき、トルコ帽の彼に出会《でく》わしたのである。私たちのその村に住んでいる期間だけのちょッとした交遊がはじまり、そして一夏、彼の山小屋をかりるようなことにもなった。
小学校の先生というものは、父兄の襲撃に手を焼くものである。自分の子供は特別な子供だときめこんでいる父兄がうるさいことをいってくるからで、こッちの公平な判断を理解してくれない。一方的にきめこんでいるばかりで、こッちの言葉に耳をかそうとする謙虚な態度も失っている。小学校の先生もおもしろいが、これが何より苦手です、と云って彼に打ちあけると、彼は静かに微笑して、
「それはね。こんなのは、どうですか。そんな父兄と話をする時には、はじめ、先方にききとれない細い声で喋るんですね。エ? と云って、先方がきき耳をたてますね。で、次第に、きこえるように声を高くして行くのです。相手は自然にこッちの話をきこうとする態度になっているんですね」
彼はこう奥儀を伝授してくれたが、これによって私が苦手から少しでも救われたという効き目はなかったようである。この伝授は後日に悪影響を残している。私は人と話していて、自分の声が細いのに気がつくと、意識してそうしていたわけではないが、彼の伝授を思いだして、甚しく切ない気持になる。悪事、詐術を使っているような不快な思いになやむのである。しかし、伝授した彼については、おかしさと、ややなつかしさを覚えるだけで、不快な気持はないのである。
小田嶽夫と海音寺潮五郎が芥川賞をもらった時だと思うが、レインボーで文士をまねいて授与式があった。その食卓で各自の自己紹介があった。私の番がきて、立ち上って姓名を名乗ると、席を向い合っていた菊池寛が、
「キミ、もっと、大きく」
と叫んだ。私は彼と一切交遊がない。彼が私によびかけたのは、この一言だけであるが、私はこのとき、いくらか顔をあからめたかも知れない。伴氏の伝授を思いだして、この時ぐらい味気ない思いに胸をつかれたことはないのである。
又、その村には、藤田という、彼の親友の画家が住んでいた。私はその絵を知らないが、一生ナマズの絵を書いていた人だそうだ。自ら鯰魚と号していたように記憶する。無邪気な楽天家であったが、恒産があったのかも知れない。しかし、貧乏のようでもあった。生れながらに手と足の指が三本ずつしかない人であったが、そういうことが気にかかる余地がなかった。先日因果物の小屋へ見物にはいったら、人間ポンプというのと一しょに、手足の指が三本ずつの男が見世物にでていたが、そんなものが見世物になるのが、むしろ私には異様であった。三本指の藤田画伯はなんの異状もないばかりか、甚しく健康な楽天家であったからである。
藤田画伯は生来仙人の趣があったが、伴氏はむしろアベコベの天性のように思われる。しかし、生来の仙人は、わざわざ山中に小屋がけし、谷水をひいて住むような面倒な苦労はしたがらないであろう。それを敢てする人は、むしろ天性の俗物であろうが、しかし空想で終らずに本当に着手するには、夢想家にしても、山師にしても、並のものではない。彼は戦争中は猛烈な神がかりで、私は郷里の新聞に彼が神がかりの論文をのせているのを読んだが、先ずこれぐらいベラボーな論理を失した神がかりは天下になかったようである。軍人にせよ、政治家にせよ、壮士にせよ、農夫にせよ、神がかり的になり易い人士は、反面チミツな計算家で、はじめは相手にききとれないような細い声で語りだす、というような術については一生心を用いている人種らしい、と、私はそんなことを考えたりした。あの山小屋の造り主がそんな神がかりになったことが、わびしかったのである。あの山小屋は彼の終生の傑作であったようだ。
私は一夏、彼の山小屋をかりて暮すことにした。もし快適だったら、小学校の代用教員もやめて、当分山ごもりして読書しようかとも思っていたのである。
その出発の日は暴風雨の警報がでていた。なみの旅行とちがって、半分出家遁世のような出発であるから、浮世の警報などは気にかからない。家をでる時はまだ雨も降っていなかったが、途中、彼のところへ寄り道して、山中生活の細い注意をきいたので時間をくい、(彼が外出先から戻るのを待っていたので時間をくったのだ)青梅の駅へ降りた時には猛烈なドシャ降りである。すでに多摩川は水量をまして、濁流は堤をかみ、青梅の万年橋を渡る時には、今にも橋が解体しそうな心細さを覚えたほどであった。万年橋を渡ると、もう青梅の町の外れであるが、(今のことは知らない)そこに、日用品や食物を売る店がある。それがこの街道の最後の店だ。米だのミソだの、東京から背負ってゆく必要のない時であるから、なるべく
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング