、同時に実在していないような半面を信用していた方がマチガイがすくない。小説道にかかずらう以上は、かの日本首相の如く単純であってはイカンのである。
 私は、鎌倉四十七士が、いささか義に勇みすぎる風情があるのを怖れるのである。義というものは、元禄のころは実在したかも知れないが、当今は、国の敗れたるが如く雲散霧消せりと観ずる方が天地の理にかなっているようである。とはいえ、大石が一力茶屋で遊んでいるのを、本当にそれに打ちこんで遊んでいたなどとケチをつけるワケではない。太平洋戦争で司令や参謀が茶屋酒にウツツをぬかしていても、戦争を忘れていたワケではない。
 とは云え、自殺する人間は、どんなに甘くても、世をいつわり、人をいつわり、自分をいつわっていたと見た方が穏当のようだ。トマサンが最後のウイスキーの一本をのみほしてから死んだのを見ても、よく考えてのことで、マーラーの如くだしぬけに女の子のアイクチでやられていないことがわかる。
 私は死んだトマサンが好きである。彼の悲しい生涯に涙をそゝぐことにおいて、決して人後に落ちるものではない。しかし、自殺はなくもがな。シメククリが自殺であろうと、平和な往生で
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